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​しょ~と・ぴ~すの会 記録

​◎日付・タイトル・講師

 

各回をクリックすると、「内容・資料」の該当箇所へ移動します。

回数       日付        講師          タイトル                                       

第90回  平成27年6月1 4日  由紀 草一  道徳教育という不道徳

91回      9月20日  藤田 貴也  日本人に哲学は可能か

第92回      1129日  小浜 逸郎  語りだけが真実である

第93回  平成28年日 上田仁志/後藤隆浩    文学なんてやってる場合ですか?

第94回      5月22日  滝川 一廣  発達から見た子どもの理解

第95回      10月 日  根本 義明  メディアの犯罪

第96回  平成29年月22日  小林 知行  なぜ私たちの手元にお金は来ないのか?

第97回       4月2日     渡辺 純央   映像の仕組みと解読

第98回       7月2日  汲田  泉   環境リスクマネジメント入門

第99回       10月15日  村田     一   日本の経営の良いところ、ダメなところ

​第100回   平成30年1月28日  河南 邦男  本能寺の変を、中世の文脈で考える

第101 回                   5月20日  日和裕介・小浜逸郎・上田仁志  政党政治における集団と個

​第102回                   7月 15日        伊藤研一/滝川一廣  『子どものための精神医学』

第103回        9月30日  由紀草一/小浜逸郎  『福沢諭吉 しなやかな日本精神』

第104回      11月25日  本田哲也    子や孫が勉強で躓いたら……

第105回   平成31年 2月3日   古川 徹朗   良心の発達と反省するということ

第106回   令和元年5月 12日    藤田 貴也  音楽はいかにして意味しうるか

第107回    令和元年 9月  8日    上田 仁志       日本映画にとって平成とは何だったのだろうか

第108回  令和元年12月1日   小浜 逸郎        日本は凋落を食い止められるか

第109回  令和2年 3月1日   田中宏太郎  日本人が英語国で暮らして学んだこと

第1 10回     令和2年    9 月 6日        杉浦 篤    ラテンアメリカと日本との繋がり

第1 1 1回  令和2年 12月 6日         河田 容英  『日本書紀』編纂メンバーのひとり忌部子人の生涯からみた国史の成り立ち

​第1 1 2回  令和3年3月7日   由紀 草一   万世一系物語

第1 1 3回     令和3年6月6日   瀧本   敬士           海外で見聞きした小ネタ百連発

第1 1 4回     令和4年3月27日   藤田 貴也    移民について

第1 1 5回  令和4年5月22日  兵頭 新児   フェミ急増の謎

第1 1 6回  令和4年10月2日  小西 一也  基礎から論考する地球温暖化 -科学・歴史・懐疑論

第1 1 7回        令和5年9月10日 但馬オサム・兵頭新児・宙みつき  日本におけるLGBT(Q)問題理解のために

第1 1 8回        令和5年11月12日  藤田 貴也  小浜逸郎ー《生活者の思想》 

第1 1 9回        令和6年2月25日  濱田玲央 実践の思想家 小浜逸郎~『倫理の起源』を読む~ 

​◎各会の内容・資料

アンカー 1

第90回 由紀草一「道徳教育という不道徳」

 「道徳教育」なる試み自体が、非常に不道徳的なものだ、という考えを述べました。

  尚、これに基づき、由紀が文章化したものは、ネット上で公開済です。興味のある方々にはご一読いただき、新たなご意見・ご批判をたまわると幸甚です。

「道徳教育という不道徳 その1(教科化まで)」

 http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/f093ad2e1fc8bc159ee7313d1fc3192b

 「道徳教育という不道徳 その2(評価、など)」

 http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/98757582624e786a5d4fcaad99784ad4

 「道徳教育という不道徳 その3(何かが伝わり、残る)」

 http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/87de07ebf2538f06ec73d474fb629ea5

第91回 藤田貴也「日本人に哲学は可能か」

【由紀のコメント】

 藤田氏の発表は、「哲学」という言葉の、ヨーロッパにおける古代から近代までの、そして日本での明治初期から現代までの、イメージの変遷を辿ったもので、お話の内容自体が「歴史」として興味深いだけでなく、「観念」と呼ばれるものを抱きながら生きざるを得ない我々の実存のあり方について、有効な視点を提供していただいたものでした。

 

尚、藤田氏は、平成26年2月に「西部ゼミナール」に出演なさっておられ、そのときの動画は下で見ることができます。

http://s.mxtv.jp/nishibe/archive_detail.php?show_date=20140222

第92回 小浜逸郎「語りだけが真実である――太宰・落語・物語」

 当日発表資料 

【小浜氏の案内文】

 天動説が地動説にひっくり返ったように、この世には、絶対的・客観的な真実があるという信念は、必ずしも正しいとは言えません。しかし科学時代に生きる私たちは、しばしばこの懐疑を忘れ、何かあらかじめの絶対的な真実なるものがあると、どこかで見なしながら生きています。しかし、神話や歴史や文学を顧みると、「語られたもの」「書かれたもの」「考えられたもの」を通して、客観的真実なるものが承認されてきたにすぎないことがわかります。科学的真実もその例外ではありません。

 また最近の某国(複数)の振る舞いを見ていると、「歴史とは捏造の歴史である」と言いたくなってきますね。どうやら声の大きい奴が勝っているようです。

 この講演では、文学や古典芸能や歌物語などを中心素材にして、「真実」とか「事実」ということの意味をいろいろな角度から(哲学的にも)掘り下げてみたいと思います。物事を鵜呑みにしない健全な懐疑精神を恢復するための一助ともなれば幸いです。ちなみに、私の話を「客観的真実」だと信じないでください。その心配はありませんね。

【由紀のコメント】

 「語り」の哲学的な考察から、歌物語、落語、太宰治の小説を題材に、多方面から「語り」という人間的な行為の内実に迫った考察が聞け、最近の文字言説では政治と倫理が主なテーマになっている小浜さんの、今後の(広い意味の)文学論の展開が期待される内容でした。

第93回 上田仁志・後藤隆浩「文学なんてやってる場合ですか?」

【由紀のコメント】

 狭義の文学について、長年研鑽なさっているお二人に講師をお願いしました。

 直接の題材は、「人間の羊」を中心とした大江健三郎の初期作品です。お話の中心は、戦後という時代において、このノーベル賞作家がどのように「志」を持続させ、それによってまたどのように変質したかになると思いますが、そこを踏まえて、より広い、現代の精神状況に目を向けることができるのではないか、と希望します。

 他でもない、「純文学」が不人気なのは昔通りとしても、かつて背負っていたかに見えた光背――時代と切実に切り結ぶ、というような――がめっきり薄れたと観じられるのは、それ自体が相当根の深い問題とつながっているのではないか。このへんが私の興味の焦点でした。

 両講師が作品とそれに対する反応の概略を要領よくまとめてくれましたので、文芸の意味について、会員それぞれの立場から、掘り下げた議論ができたと思います。会後、「こういう話が楽しいんだよね」と何人かで言い合ったのが、私などの一番率直な感想です。

第94回 滝川一廣「発達から見た子どもの理解」

【由紀のコメント】

 精神科医・滝川一廣氏に講師をお願いして、「子ども」の問題について考える会にしました。

ごく身近に感じられますが、否むしろそれだからこそ、「心の形式・内容」まではなかなか目が届かないのが子どもという存在です。滝川氏のお仕事はこれまで、子どもの成長=発達とは何かを根底から押さえ、現代特有の子どもの育ち/子育ての問題まで考察する、深くて広い目配りの上に展開されたものでした。これを前提とすれば、「子ども」の理解に止まらず、人間、そして現代という時代の理解のためにも、裨益するところの多い会になるのではないかと、期待されました。 

 結果、当会として最大の参加者を迎えることができました。滝川一廣氏の講義内容もそれにふさわしく、精神医学の歴史と現状をきちんと踏まえつつ、独自に、またわかりやすく子どもの「こころ」へのアプローチ(接近方法)を示したもので、参加者には大きな感銘を与えました。

 私としては、これに基づいた滝川一廣先生の主著が刊行されたなら、もう他の発達心理学の著作はいらなくなるんじゃないか、とさえ思いましたが、もとより素人考えにすぎません。さらに、できれば、これに基づき、人間論や現代社会論を自分なりに展開できたら、滝川先生への「恩返しも」できるかな、などと傲慢な夢想までしてしまいました。

尚、上記の著作は平成29年3月、医学書院から刊行されました。

滝川一廣『子どものための精神医学』

第95回 根本義明「メディアの犯罪 間違いだらけの経済記事をめぐって」

【根本氏の案内文】

 小浜逸郎氏主宰の経済問題研究会の専任講師を務めて、およそ四年間になるでしょうか。経済学の専門家でもない私が、同会の講師を務めることにためらいがなかったといえばウソになります。

同じ思いは、今回もつきまといますが、そういう役をそれなりに務め続けていると、日本経済をめぐってある感慨が湧いてくるのを禁じえません。

 それは、「日本は、さらなる豊かさと国土強靭化と安全保障のゆるぎない土台作りとを同時に実現できる大きなチャンスを、実は手中にしているのに、バカげた経済思想と誤った経済政策と、それを触れ回る日経新聞を筆頭とするバカマスコミによって、そのチャンスをみすみす逃している」というものです。

 「日経新聞を読むと、経済のことがよく分かるようになる」という言葉を耳にしますが、それは、真っ赤なウソです。日経新聞が垂れ流している経済記事を真に受けると、かえって日本が豊かになる道筋を見失ってしまうのです。それは、端的に言えば、日経新聞(に限らず大手新聞社すべて)の基本姿勢が、グローバリズム礼賛だからです(それはアメリカ礼賛とかぶります)。だからこそメディアは、こぞってTPPに賛成し、消費増税に賛成し、緊縮財政に賛成するのです。

 そういう、メディアの主導によって国民があいまいに共有することになってしまっている、経済をめぐる共同幻想をできうるかぎり白日のもとにさらして、それがいかに間違った経済思想であるのか、いかに日本経済をダメにしているのかを明らかにしたい。そうすることで、日本の本当の可能性をあぶりだすことがかなえば、と思って、今回講師を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。

【小林知行氏からのコメント】

 根本義明(美津島明)さんから日本経済新聞を筆頭とするマスメディアが発信する情報が、如何に歪んでいるかを告発して頂きました。例えば「国の借金」問題の報道が年中行事化したことや、郵政、農政改革等々、これまで常識とされていたルール、組織をスケープゴート化して槍玉に挙げることが、我々の意識に大きな影響を与えていることに、改めて思いを致すことになりました。

第96回 小林知行「なぜ私たちの手元にお金は来ないのか? ~金融ムラと会社ムラで起きている事実~」

 資料  プロジェクター用

【小林氏の案内文】

 このたびスピーカーを務めさせて頂く小林知行と申します。物流関連のシンクタンクに勤務し、あらゆる企業様からの物流効率化に関する相談、物流に関する各種統計の調査依頼を承ることなどを職業としております。家庭では3歳と1歳の2児の父でもあります。

 身近なようで実は知らない金融業界の常識や、多くの人たちが仕事をする場である会社で今何が起きているのかについて、いくつかのデータをお示ししながら出来るだけわかりやすくお話させて頂きたいと思っています。

 「金は天下の回りもの」とはよく言ったもので、私たちの懐に入ったお金も、出ていくときには必ず誰かの懐に入ることになっています。誰かが惜しいと思っていつもは3枚出してた千円札を2枚にすると、誰かが手に入れる千円札も2枚になり、2枚手に入れた人は、どうも懐寂しいから今日は1枚だけにしようかとなり、使われるお金が螺旋階段を降りるように徐々に縮小していってしまったのが、「失われた10年(20年)」と言われる90年代から現在までに至る長期停滞の原因です。これは世間では概ね常識になりつつあります。

 では、安倍政権が当初掲げた「三本の矢」の一本目「大胆な金融緩和」で我々の稼ぎ(≒実体経済)に好影響は出たのでしょうか。日本銀行は当初「2年でデフレ脱却する」と宣言していましたが、3年経ってもそれが実現しないところを見ると、そうは問屋が卸さないようですね。少し調べてみると、事実お金の量は増えましたが、そのお金は金融ムラの中を回遊しているばかりです。どうやら、金融ムラに流れるお金と会社ムラに代表される実体経済を流れるお金は淡水と海水ほどの違いがあるようなのです。いま、金融ムラと会社ムラでは何が起きているのか―。今回の発表内容では、2つのムラに流れるお金の違いを足掛かりとして、長期停滞の解決の糸口を探りたいと考えております。

【由紀のコメント】

 アベノミクスにより事実お金の量は増えたのに、我々一般庶民にはなかなかそれがまわってこない根本の理由につき、豊富な資料と緻密によって明らかにした、小林知行さんのすばらしい発表が聞けました。この状態を根本的に打破するためには、事実としての経済状況を無視しなければ成立しない経済学説やら、財務省や各種マスコミの垂れ流す悪質なデマには乗せられず、今日本にとって一番必要なのは何か、きちんと見極めて訴えつづけていくことが、迂遠なようで、唯一の正道である、と心から納得いたしました。

第97回 渡辺純央「映像の仕組みと解読――黒澤明から宮﨑駿+α

【渡辺氏の案内文】

 戦後わが国の映画は黒澤明という、巨匠によって牽引されていました。一時期は完全に、彼が担っていた、と言っても良い。それほどの存在です。

 その黒澤が衰えたあと現れたもっとも重要な監督が、宮﨑駿であることに異論のある人は今日、もう、あまりおりますまい。まさに、国民的映画作家です。

 今回はこの二人を中心に、他の監督も少し、交えつつ、彼らの作品が何を担い、どのように構成されているのか?作品に現れている映画作家としての発展を中心に、お話したいと思います。

もちろん、と言っては何ですが、私はアニメを専門にしていますからどうしても、アニメ中心の話になりますが、その点はご容赦を。

 必ず言及する作品として「羅生門」「太陽の王子ホルスの大冒険」「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「攻殻機動隊ーGhost in the Shell」を挙げておきます。

【由紀のコメント】

 アニメーションは、個々の、あるいは全体としての映像作品をどう評価するにもせよ、現在の日本で文化的にも経済的にも大きな役割を担う存在であることは疑えないと思います。渡辺純央さん(アニメーター・アニメーション演出家・東京造形大学講師)という、この制作現場に身を置くと同時に、大学で未来のアニメーターの養成にも携わっている人のお話をうかがえたことは、たいへん意義深いことでした。主要な例として、草創期の名作「太陽の王子ホルスの大冒険」と、最近ハリウッド制の実写映画にもなったエポックメイキングな傑作「攻殻機動隊ーGhost in the Shell」を挙げられ、アニメの本質を丁寧に解説していただき、実りの多い会になったと思います。

 

 

第98回 汲田泉「環境リスクマネジメント入門――安全と安心をどう考えるか」

【汲田氏の案内文】

 講師は大学で農薬化学を専攻し、化学会社の研究所においてずっと農薬の研究に従事してきました。社内での新人の教育の一環として「農薬学」を担当し、農薬の歴史、社会的な役割、その問題点などについて話す中で、安全性の問題、リスク管理などについて関心を持ちました。

 最近豊洲の土壌汚染が話題になっていますが、その前には原発による放射能汚染、BSE、残留農薬、ダイオキシンなど安全と安心をめぐってさまざまな議論がくりかえされてきました。多くの人は主にマスメディアを通じて情報にふれますが、それ自体に種々の問題があることも指摘されています。リスクにどう対応していったらいいのでしょうか。リスクを管理するためには、科学的にどう評価するかの他に、社会的な合意も必要になってきます。リスクの問題は科学的でもあるし社会的なことでもあるのです。これについて自分で判断していくためには、基本的なところをおさえておくのと同時に多面的な視点を持つ必要があると思います。

 農薬の環境中での問題を指摘したR・カーソンの古典的な著書が、その後どう評価されたかなどもふまえて、現在の農薬の安全性がどのように担保されているのか具体的な例を述べます。そして、リスクを考える上ではずすことができない、中西準子さんの「環境リスク学」基づいた(できれば「食のリスク学」「原発事故と放射線のリスク学」も参考にしながら)お話をしたいと思います。さらに、「安全と安心」の現場で仕事をしている松永和紀さん、半谷(はんがい)輝己さんの本を紹介します。

◎ 参考書 (読んでいなくてもわかるように説明します)

1.「サイレント・スプリング再訪」(1991、化学同人)

 「沈黙の春」の著者R・カーソンの死後二十年に、アメリカ化学界が彼女の「先見性と遺産」について評価したもの。

2.中西準子「環境リスク学:不安の海の羅針盤」(2004、日本評論社)

 環境リスクについては、いたずらに危険性を騒ぎ立てるのでなく、リスクの程度を可能な限り定量的評価・比較しそれをもとに合理的な対策をとるべきであると主張。そのためのリスク評価の手法確立に尽力し、この分野の日本における第一人者である。「リスク学」を知るための必読書である。1部の横浜国大の最終講義は「研究者中西準子という生き方」としても興味深い。

3.松永和紀「メディア・バイアス」(2007、光文社新書)

 食品、健康、疑似科学、環境問題、放射能汚染など幅広くメディアに発信。元毎日新聞記者としての反省もふまえながら、科学分野のライターとして活動。

4.半谷輝己「それで寿命は何秒縮む?」(2016、すばる舎)

 著者は福島県原発被災地在住。単なるサイエンス・インタープリター(科学知識の翻訳者)ではなく地域メディエータとして「地域住民と、科学的知識を持つ専門家の間を取り持つ活動」をめざしている。食品、放射線についての安全について心配があれば、ぜひ一読を。

◎講師紹介

 昭和48年  京都大学農学部農芸化学、農薬化学修士課程修了

 同年     日本曹達(株)生物科学研究所入所 以後、天然物研究、合成研究、コンピュータ・ケミスト 

                            リー、農薬動態研究、情報管理などに従事。

  平成19年  (財)工業所有権協力センター 特許調査に従事、現在にいたる。

【由紀のコメント】

 長年農薬の研究に従事されてきた講師から、環境ホルモンなど、一時非常に騒がれながら、いつのまにか雲散霧消してしまった話題の真相を伺い、現代社会が抱える科学的問題の本質をきちんと理解し、冷静に対処することの大切さを教えられる会になりました。最近の例では、原発事故に端を発する放射能騒ぎにも、同じように、情緒的な反応が先行する傾向は社会に根強く、それに対する参加者各自の立場からの見聞や感想は、いつもよりもっと活発に出されたと思います。

第99回 村田一「日本の経営の良いところ、ダメなところ ~グローバリズムの波の中で~」

 資料1 タネ本①より

 資料2 小浜逸郎「誤解された思想家たち〈27〉― 石田梅岩」

 資料3 村田一「コンプライアンスとは何か」

 資料4 タネ本②より一覧表

【発表レジュメ】

1.日本の経営の良いところ を 再認識します。

  1980 年代初めに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として持てはやされた日本的経営ですが、1990 年代の バブル崩壊後は、逆にその日本的経営が否定され、多くの上場会社は株主の利益を重視する経営に移行して いきました。これは取りも直さず日本的経営がグルーバリズムの波に覆われたといってよいでしょう。

  ところが意外なことに欧米では、近年、日本的経営の良いところを学んで元気を回復しつつあるという声も 聞こえてきます。その日本的経営の優れたところを再認識します。

<タネ本①> 『世界が称賛する日本の経営』伊勢雅臣著 2017 年 3 月 育鵬社刊 著者は、メールマガジン「国際日本人養成講座」編集長。住友電工の幹部社員で米国子会社社長。「三方良し」 を追求する日本的経営の優れているところを再認識するための本。「勤勉・誠実・正直」を尊んだ「心学」の 教えを説いた石田梅岩を日本的経営の始祖と紹介しています。 www.amazon.co.jp/dp/4594076858

2.日本の経営のダメなところ は 何か。 電機メーカーを例に分析します。 ~ 粉飾決算の東芝、衰退の一途の NEC、液晶一点張りで自滅したシャープ 等々 ~

  一方で、バブル崩壊後にデフレ下で景気が長期にわたって低迷する中、かつて日本経済を牽引した名だたる 電機メーカーが業績不振や不祥事を起こし、事業売却や事業縮小を余儀なくされている状況もあります。

 これらの企業はどこで道を間違えたのでしょうか。『失敗の本質』をモチーフに、探ります。

 

<タネ本②> 『東芝解体 電機メーカーが消える日』大西康之著 2017 年 5 月 講談社現代新書 著者は、元日経新聞記者。『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』をモチーフに日本の電機産業の構造的敗因 を考える本。 www.amazon.co.jp/dp/4062884267

 

3.いかにしたら日本の企業がグローバリズムの波を乗り越えることができるか を考えます。

 日本の経営の良いところと ダメなところと を、対比的に取り上げた後で、これからの時代、いかにしたら 日本の企業がグローバリズムの波を乗り越えていくことができるかを考えてみたいと思います。

 ただし、この問題は容易に解が見いだせるものではありませんし、政府の政策のかじ取りにも左右されるも のですので、参加される皆さんと一緒に考え方のヒントが見いだせればよいと考えています。

 

<タネ本③> 『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』中野剛志・柴山桂太著 2017 年 6 月 集英社新書 グローバル化によって引き裂かれた国民と社会の分断、そこから始まる悲劇、そして、それらを乗り越える 知恵などをマクロな視点で示す試みの本。 www.amazon.co.jp/dp/4087208869 

 

 〈村田一(講師)略歴〉     現在、ソフトウェア開発会社に勤務。内部監査業務に従事。

     1951 年    東京生まれ。

  1974 年    早稲田大学理工学部卒業。同年、商社系の情報システム会社に入社。

     1981 年    金融サービス会社に入社。金融サービス会社のグループの情報システムの開発・保守・運用に従事。           2000 年    同社の内部監査部門に異動となり、社内およびグループ会社の業務監査、IT 監査に従事。

     2011 年    同社を定年退職後、ソフトウェア開発会社に移り、業務監査、ISO 監査に従事、現在に至る。

【由紀のコメント】

 前回(10月15日)は、企業の内部監査の仕事に長年携わった講師により、日本的経営の得失についてお話をうかがいました。これについては従来様々な議論があり、個人より集団優先と言われる日本の慣行には優れた面も認められること、しかし、グローバル化が進んだ現在、名だたるリーディング・カンパニーが次々と不祥事を起こすようになったのはなぜか。講師の他にも参加者から様々な意見が出され、結論を出すには至らなかったものの、この問題について深く考えるよい機会になりました。

 

第100回 河南邦男「本能寺の変(実は明智光秀の乱または天正十年六月政変)を、中世の文脈で考える

 当日発表資料

【河南氏の案内文

 歴史物小説を耽読している私が、日本史の謎の一つである「本能寺の変」をテーマとする小説群を逍遥する道すがら、偶然手に触れた書籍『明智光秀の乱~天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』(小林正信著、里文出版2014.07.02)があります。ひも解くと、学術書でありながら、小説を超える構想力に乗せられ、通説を超える驚愕の結末に流れ落ちます。その上、中世から近世にかけての日本史の歴史的視野が広がるという豊穣な副産物があります。また、織田信長や明智光秀を、中世から近世へと移る当時代の中で思考し行動する人物として描いています。

 

 学術書なので空想の物語ではなく、使っている素材である歴史的事実は、すべて文献の裏付けがあります。本書を中心に置いて、お話しします。司馬遼太郎や津本陽や伊東潤など関連する歴史小説にも言及したいと思います。小林著を読んで来てくださればベターですが、読まなくてもわかるようにお話します。

 

 内容を想像するヒントは題名にあります。「本能寺の変」ではなく「明智光秀の乱」です。「変」として扱うことは、「この事件を敢えて卑小化する」ように後の政権が規定したもので、爾来長きにわたりその罠から誰も抜け出せないままで来ました。著者の小林正信氏の説は、

①「その規模と目的に照らして<乱>と呼ぶに相応しい」、

②「日本史が中世から近世に向かう途上において、互いに拮抗する勢力が覇権を争った政変である」、

③「この事件を歴史的に正しい位置におくことが、日本の中世から近世への歴史観を豊かに獲得することである」、

とのことです。

 最近「室町本」が売れているそうです。先行き不透明な世の中になったから、あるいは<乱>の予感からでしょうか。『応仁の乱』(呉座勇一、中公新書2016.10.19、『観応の擾乱』(亀田俊和、中公新書2017.07.19)、『享徳の乱』(峰岸純夫、講談社選書メチエ1017.10.11)、『杉山城の時代』(西股総生、角川選書2017.10.27)と続きます。なぜ読まれるのかを分析する人は、(1)想定外が続いてリアル(2)日本史の常識が覆される(3)歴史小説より新鮮、と言います。

 それが理由ならば、これら全てが本書に当てはまります。本物の室町本と言えます。

 ということで、当日は皆様の貴重な半日を費やすことに責任を感じつつ、なるべく生真面目すぎて退屈な話にならないように心がけます。「戦国時代講談」を聞くつもりで、臨んでいただければ幸いです。

河南邦男 プロフィール

1944年8月生まれ。

1968年春、慶応大学哲学科を卒業するとともに、読み慣れた哲学書を脇に置き、そのころ企業に導入され始めたビジネス用コンピュータのプログラマー、SEとして働き始める。自動車メーカー、建設会社と渡り、子会社の道路会社の株式上場準備事務を行う。

 転職してITベンチャー企業の株式上場に携わる、以後当該企業の管理部門に携わる。

2013年夏、退社するとともに、哲学書を再読し始める。このころ、本会及び言語哲学研究会に参加する。

2016年秋。再び、上記のIT(今はIoT)べンチャーに就業する。

 趣味は、歴史書を読むこと、山城を訪ねること。哲学書を読むこと。

【由紀のコメント】

 長年哲学と歴史についての研鑽を重ねてこられた著者から、通常「本能寺の変」と呼ばれる織田信長の横死事件が、日本の中世から近世にかけての変転中で、いかなる意味を持っていたか、お考えを発表していただきました。雄大な構想と、骨太の人間ドラマを兼ね備えたお話に、参加者個々の意見が重なり、「歴史語り」の醍醐味を満喫する機会になったと思います。

第101回 日和裕介・小浜逸郎・上田仁志「政党政治における集団と個」

 当日発表資料

     大学での講義レジュメ

【日和氏の案内文】 

今回のテーマの提唱者である、私、日和裕介は、大学時代以来、約10年間にわたり、自由民主党の党実務に携わってきました。現在は、自民党青年局のメンバーとして活動し、選挙の際などは、微力ながら、実務の指南役としての役割を務めています。

昨年、私は小浜逸郎さんの大学の授業「個と集団」を毎週聴講する機会を得ました。小浜さんの講義の中で、「エロス的関係性」と「社会的関係性」という切り口に触れたとき、これは、現代の政党政治を解明する上で重要なヒントになるものと感じました。今回のしょーとぴーすの会では、この観点を皮切りに、現代日本の混迷する政治状況に探りを入れたいと思います。

 

【由紀のコメント】

 自民党青年局に所属する日和裕介氏を中心に、「政治」について、小浜逸郎氏と上田仁志氏の鼎談、次に会場全体で討議いたしました。何しろ、人間社会の根幹に関わる本質論(なぜ政治は必要とされるか)から、非常に個別具体的な問題(目下の政治はどうなっているか)まで含みますので、議論の焦点が絞り切れない憾みは残りましたが、各人の思いがぶつかったりすれちがったりしながら、「今政治に何が求められるか」に収斂していくダイナミズムは体感できた会になったと思います。今後私を含め皆様の、政治意識を磨く縁(よすが)になれば、と願わずにはおれません。

 

〔日和裕介プロフィール〕

2006年  青森大学経営学部卒業

同  年  自民党青年局学生部長に就任

〔小浜逸郎プロフィール〕

評論家・国士舘大学客員教授。

昭和22年(1947年)横浜生まれ。

横浜国立大学工学部卒。教育論、家族論、男女論、思想、哲学など、広範囲にわたって言論活動を展開。

著書に『13人の誤解された思想家』『デタラメが世界を動かしている』『なぜ人を殺してはいけないのか』他多数。

新刊『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(PHP新書)

ブログ:「小浜逸郎 ことばの闘い」https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo

〔上田仁志プロフィール〕

昭和38年(1963年)、東京生まれ

平成 4年(1992年)、筑波大学大学院 博士課程満期退学(専攻は一般文学・文学理論)

同 年  帝京女子短期大学に勤務

現 在  帝京大学  学修・研究支援センター准教授

第102回 読書会 滝川一廣『子どものための精神医学』 レポーター:伊藤研一

 当日発表レジュメ

    本田哲也氏の書評(アマゾントップカストマーレヴュー)

 本書全目次・見出し(本田哲也氏作成)

【伊藤氏の案内文】

 目からウロコが落ちる本である。驚きがあり、感動もあるのだが、どこか「そういわれれば確かにそうだよね」と深く納得する。これこそが真のオリジナリティだと私は思う。

網羅的に概要を記すのではなく、どこで「目からウロコが落ちた」のかを拾い上げて伝えたい。

1.診断について

 身体医学では、近代以降、診断はどこが(病巣)、なにによって(病因)、どう(病理)失調しているかによって行われる(p44)。症状によって診断されるのではない。なぜならば症状(たとえば熱)はさまざまな病気に共通してみられるので(非特異的)、病気を特定するのには向かないからである。

 ところが精神医学では「症状」によって診断が行われる。これは社会的・対人的な(つまり誰がどんな状況で患者とどのような関係を築いて行われる)「判断」なのである。

 こういわれてみれば確かにそうだけれど、このようなことをストレートに述べた専門家を(不勉強にして?)知らない。「判断」なので、表面的な「判断」や深い「判断」、間違った「判断」がありうる。こう考えると、「とにかく医者(専門家)に診断してもらえば安心」という考えの危うさがわかる。しかし、一方で滝川氏は「診断には納得と安心の力がある」と理解を示す。それでも診断は治療の「入場券」に過ぎず、大事なのは、クライエントへの援助に関する個別的で具体的な理解(formulation)である。

 

2.「精神発達」について

 ここからがすごい。精神発達を認識(Y軸)と関係(X軸)との相互作用としてみていくことが提唱される。Y軸にピアジェの発達理論、X軸にフロイトの発達理論が割り当てられる。ピアジェの専門的研究者、フロイトの専門的研究者はいるけれども、この二つを組み合わせて考えたひとがいるだろうか。そしてそれぞれについて平易に説明される。

 そしてピアジェの発達理論では「関係」が見えていないと「チクリ」と刺す。認識の発達も周囲との交流を通して行われるのである。

 さらにフロイト。「小児性愛」を発達論の鍵概念とした点への再評価。「人間の性愛は、最初、乳幼児が養育者との愛撫的なかかわりと求める心身未分化な深い欲求として始まる」(p86)。しかもこれは双方向的なものである。他の論文では(記憶によれば)、赤ちゃんをみると私たちは思わずほっぺたをすりすりしたくなったり、チューをしたくなったりするし、赤ちゃんもそれを求めているような様子を見せる。これと成人の男女が互いに抱きしめあったり、キスをしたりするときの欲求と源を同じくする、と。これは「種の保存」ということだけを考えれば不要ではないかと。「なるほど」!である。

 

3. 以降

 本書を読みながら書いているうちに、どんどん長くなっていきそうなので、これ以降は、ぜひ取り上げたいキーワードだけを以下に記して、当日、みなさんとディスカッションしたい。

  • 二人関係から三人関係へ

  • 発達障害をどう考えるか

  • 高い感覚性の世界

  • 育てる側のむずかしさ 「虐待」使用をやめよう

  • 不登校の背景

  • いじめ

 

〔伊藤研一プロフィール]

 昭和29年生まれ。現在、学習院大学心理学科教授。専門は臨床心理学、フォーカシング

【参加者のコメント】

 前田嘉則氏のブログ「滝川一廣氏に話を聴く。」

 天道公平氏のブログ「子どものための精神医学」(滝川一廣著)(「ショートピースの会」の活動に触発されて)について

 由紀草一のブログ「迷路の中の学校」

第103回 読書会 小浜逸郎『福沢諭吉 しなやかな日本精神』 レポーター:由紀草一

 当日発表レジュメ

案内文】

 一万円札に肖像画が使われているぐらいですから、日本人で福沢の名を知らない人はまずいないでしょうが、その全体像となると、言論活動だけでも多年で多岐にわたるため、必ずしもきちんと把握されているとは言えない現状であると思われます。

 本書では、この近代日本初頭に登場した巨人の真面目に迫るべく、大きく分けて二つの柱が用意されています。

 第一章を全体の序論として、第二~三章では、福沢の、若年の頃からの視点を取り入れつつ、明治維新そのものが考察されます。第二章は「討幕は必要だったのか」との問題設定で、この日本史上の一大変革における光と影を述べたものです。第三章では吉田松陰、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、という四人の、この時代に大きな足跡を残した思想家・政治家が、福沢と比較されつつ論じられ、もって福沢理解が深まるばかりでなく、維新期に関する多面的で豊かな視座が得られるようになっています。

 第四~終章が、狭義の福沢論です。第四章で、政治論、学問論、経済論、脱亜論、の四つのブロックで、福沢思想が詳細に紹介されます。そして終章で、これを現代に生かす方途が考究されます。

 以上簡単に述べたところからも察せられるように、本書は、少々厚めの新書サイズの中で、時代と切り結び、時代の要請に全知力を挙げて応えようとした人物の相貌を、様々な角度からダイナミックに描いた読み物でもあります。福沢諭吉自身についてはもとより、日本史や、広い意味の政治に関心のある人なら、必ず興味を惹かれる内容です。今回も著者にご出席願えますので、それぞれの意見を開陳して磨き合える、実りある会になるでしょう。期待しています。

【反省文】

 当日は生憎の悪天候ではあったのですが、強行し台風の本格的な接近前に終えることができました。

 私のレポートは、小浜氏が最初のほう(第二章)で触れている幕末期の日本について、年表形式でまとめてみましたら、その部分がやたらに長くなり(前半約半分の時間を食いました。それでも予定した話の半分にもなっていませんでした(-_-;))、皆様には迷惑だったかと反省されます。

 会の後半は、福沢思想の神髄と信じられるところを本書から抜き書きいたしましたので、我が国の近代初頭において、今何が必要であるのか、主に精神面で、適確に説き続けた先人の巨大な業績の一端を忍ぶよすがにはなったかと思います。経済についても、福沢は正に現在に通ずる根源的な見通しを持っており、これを発見・指摘したことは小浜著の功績の一つでありましょう。

【参考:当会メンバーの福沢論】

外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう  福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 

天道公平の「社会的」参加 「福澤諭吉しなやかな日本精神」(小浜逸郎著)(PHP新書)について考える(または最終案内)

 

第104回 本田哲也「子や孫が勉強で躓いたら……」

【本田氏の案内文】

 みなさま御自身は、小中高の勉強で躓いた体験は、お持ちではないのではないでしょうか。なので万が一、みなさまのお子さまやお孫さまが勉強に躓いたら、戸惑うことになるかもしれません。

 本田は、toBe塾(トゥービーじゅく)という個別授業塾で31年間、勉強に躓いた子ども若者に、おもに数学と英語を教えてきました。授業に躓いた小中高の教師にも20年間、授業のコツや心得を伝えてきました。結果として、toBe塾の卒業生100余名のうち、弁護士3名、医師2名、経済学者1名らが輩出しています。
 11月25日は、そんな体験をもとに、我が子や孫が勉強に躓いたときの心得やコツなどについて、お話してみたいと思います。
 以下の2本を当日までに御笑覧いただけますと、本田の話で生じる眠気がすこしは減るのではないかと思われます。

【1】toBe塾の前期16年
 1本目は、toBe塾の前期16年間の総括です。2003年に『樹が陣営』ネット版に載せていただいた、ジャーナリスト佐藤幹夫さんと本田の架空対談です。『飢餓陣営』ネット版にはもはや存在しない、ここでしかお読みいただけない記録です。

http://www.tobe-honda.jp/えいご無料本/本田の論考-対談-記事/佐藤幹夫氏との教育対談/

【2】toBe塾の後期15年
 2本目は、toBe塾の後期15年間の総括です。2016年、内海新祐さんのプロデュースで、資生堂社会福祉事業団『世界の児童と母性 80号』に書かせていただいた「自己承認感タマゴを育てる学びのコツ」です。

http://www.tobe-honda.jp/tobe塾/自己承認感-を育てる学びのコツ

〈講師(本田哲也)略歴〉

・1958年3月11日に東京・日本橋・茅場町で生まれる。父方の曾祖父は日本橋の筆職人「鳳林堂」(ほうりんどう)
・1984年に東京都立大学・人文学部・教育学専攻・夜間部を卒業

 

【由紀コメント】

 tobe塾主催者本田哲也氏のお話をうかがいました。30年以上にわたって民間教育に従事し、主に学校の勉強に躓いた子どもに、数学と英語(最も躓きやすい教科)について、起死回生の機会を与えるべく、学習法の秘訣と言うべきものを案出し、伝えてきた体験が滲み出た、すばらしい発表でした。この段階にとどまらず、これらの知識の本質に迫る道筋もここから見つかるのではないか、という直感も持たれましたが、それは我々一人一人が自分の頭で考えていくべきことでしょう。

 

第105回 古川徹朗「良心の発達と反省するということ  秋葉原無差別殺傷事件を事例として」

 当日発表資料

【古川氏の案内文】

 非行や犯罪の原因を考えるにあたっては、人間の行動は自由意志に基づくものか,それとも資質や環境などに決定されているのかが議論になる。なぜなら,自由意志に基づくとすれば犯罪を行った責任は本人に課せられるが,資質や環境に決定されているとすれば,犯罪の原因は資質や環境だということになり個人に責任を課すことは難しくなるからである。

 このような考え方の違いは,法学にも反映しており,刑罰の目的については応報刑であるとする考え方と目的刑であるとする考え方が対立している。

 

犯罪の原因

刑罰の目的

応報刑

自由意志による選択

選択の責任を問う

目的刑(教育刑)

資質・環境

資質や環境の改善

 

 そして,刑法は,善悪を弁識できず,あるいは弁識できても制御できない者(心神喪失者)は罪に問わず,その程度の軽い者(心神耗弱者)は罪を軽減するとなっているように,基本的に犯罪の原因は自由意志によると捉えている。

 一方,少年法は,基本的に非行の原因は資質や環境によると捉えており,そのことは,少年法第一条に「この法律は,少年の健全な育成を期し,非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」と書いてあることで明らかである。そして,家庭裁判所調査官制度は規範の学である法律の世界に人間科学の成果を導入する目的で設けられたと言われている。

 しかし、少年による重大事件が報道されるたびに国民の厳罰化を望む声は高まり、少年法は改正を重ねてきた。そして、現在は少年法の対象を18歳未満にすることが検討されている。国民の多くが、刑罰と保護処分を二者択一的にとらえ、凶悪な事件や年長少年の事件は、家庭裁判所や調査官にまかせておけないと考えていることが分かる。

 しかし,私は,人間はまったく自由か(=本人の責任),それともまったく決定されているか(=資質や環境の責任)という問題の立て方はリアルではないと考えている。

 そこで、加害者に責任や反省を求めることをないがしろにせず,しかも人間科学の成果を非行や犯罪の解明に活かして犯罪防止に役立てるための方法論を心理学の立場から探ってみたい。そしてその方法論にもとづいて実際に「秋葉原無差別殺傷事件」を読み解いてみたい。

 

〔講師略歴]

 1949年新潟県生まれ。早稲田大学文学部心理学専攻卒。精神病院勤務を経て、家庭裁判所調査官となり、退職後も育休代替として昨年4月まで非行少年調査に従事する。立正大学心理学部「司法・犯罪の心理」非常勤講師。大学時代は学生運動華やかなりし頃で、サルトル、メルロ=ポンティ、マルクスなどを齧り、現在もその影響を脱していない。

〔参考文献〕

 学生に対する講義案をもとにお話しますので予備知識は不要ですが、参考になる文献は次の通りです。

 

井田良『基礎から学ぶ刑事法〔第6版〕』(有斐閣アルマ)

 第5章「刑罰について深く考える」、第21章3「少年事件の手続と非行少年の処遇」

戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)

 第6章「自由」、第7章「道徳」

加藤智大『東拘永夜抄』、『殺人予防』ほか(批評社)

中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)

【由紀コメント】

 前回は長年家庭裁判所の調査官を務められ、現在は大学で「司法・犯罪の心理」を講じておられる古川徹朗氏から、若者の犯罪の心理的背景についてお話をうかがいました。豊かな知識と経験、それに誠実なお人柄が滲み出るご発表で、現代が奥底に抱えている闇の一部に光が当てられた実感が得られました。

 因みに、関連して小浜逸郎氏が、ブログ記事として「四年前の川崎中一殺人事件について考える(その1)」以下三回にわたって発表され、それに発表者と私(由紀草一)がコメントを寄せています。またさらにこのコメント欄での応酬を引き継ぐ形で、発表者と由紀とのメールによる対論が現在継続仲で、順次由紀のブログに載せています。お時間と興味のおありの方はご一読のうえ、ご意見ご感想を寄せていただけたら幸甚です。

 

第106回 藤田貴也「音楽はいかにして意味しうるか」

 当日発表資料

【藤田氏の案内文】

 このたび、発表者を務めさせていただく藤田貴也と申します。現在は、地方公務員として働いておりますが、数年前まで大学院で哲学を専攻し、主にネルソン・グッドマン(1906-1998)というアメリカの哲学者を研究していました。趣味はクラシックを中心とした音楽鑑賞で、四六時中音楽を聴いていますし、聴いていないときでも頭の中で何らかの曲が鳴っています。

 今や、そのへんの動画サイトをひらいてみれば、(合法か違法かはわかりませんが)たくさんの曲を聴くことができます。ただ、私が音楽に熱中し始めた2000年代初頭は、インターネットで音楽を聴くということがあまりできなかったと思います。新しい曲を求めるにも、ちょっと試しに聴いてからというわけにもいかないので、名曲を紹介する本だったり、帯に書かれたセールス文句だったりを頼りにCDを買っていました。

 「この曲は喜びをあらわしている」と言われれば、確かにそんな風に聴こえるし、「この曲は川の流れる様子を描いている」と言われれば、そんな気もする。ただ、これはよく考えてみると、不思議なことです。音の7が、どうして喜びを表現したり、川を描写したりできるのでしょうか。音楽が何かを意味するとはどのようなことなのでしょうか。

 今回の発表では、「音楽はいかにして意味しうるか」と題して、このようなことについて語っていきたいと思います。私の趣味の都合で、題材のほとんどはクラシックになると思いますし、切り口は哲学っぽくなってしまうとは思いますが、クラシックや哲学に馴染みの薄い方でも興味を持っていただけるように努めます。

【由紀コメント】

 「意味」と呼ばれるものの根源的な考察から、基本的に言語や視覚情報を使わない音楽が、どのように「意味」を伝えるか、をテーマとする発表を聴きました。と、言うと、非常に抽象的で堅苦しい話のように思えますが、パソコンを駆使して豊富な材料を視覚的・聴覚的に紹介した、よくできた教養番組のような内容で、参加者一同たいへん楽しく、また満足できました。発表者である藤田さんを通じて、現代の若い世代の優秀さを改めて痛感しました。

第107回 上田仁志「映画にとって平成とは何だったのだろうか」

【上田氏の案内文】

 次回のしょ~と・ぴ~すの会では、平成期のさまざまな日本映画から印象的な場面(ショット)を取り上げて、その場面(ショット)がストーリーに占める意味を考えてみたいと思います。以下はそのための前置きのようなものです。

 「日本映画にとって平成とは何だったのだろうか」という題名にしましたが、これは過去三十年間の日本映画界に起こった出来事が映画史的に見てどうだったのか、たとえば昭和の映画と比べてどういう違いがあるのか、といった大きな問題を扱うことを意図しているわけではありません。平成期の日本映画がどのようなものとして私たちの心に残ったのか、どのような場面が人々の心に刻まれたのかを、一人の映画ファンの視点から回顧しつつ考えてみたいといったくらいの意味です。

 とはいえ、取り上げる作品が個人的に思い入れの深い作品ばかりに偏るのもどうかと思いますし、かといって目ぼしい作品を何もかも盛り込もうとするのも無理があります。そこで選ぶべき作品の見当をつけるために1989~2018年度の日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品とキネマ旬報ベストテン日本映画部門第一位作品の一覧を用意しました(別頁参照)。このリストをもとに話をしていきたいと思います。

 平成期において高く評価された映画作品や映画人に関して、この一覧から言えることがいくつかあります。

(1)日本アカデミー賞、キネマ旬報ベストテンの両方で最高賞に輝いた作品が9作品(『黒い雨』、『息子』、『シコふんじゃった』、『午後の遺言状』、『Shall We ダンス?』、『たそがれ清兵衛』、『フラガール』、『おくりびと』、『万引き家族』)あります。いずれも公開当時評判になった作品ばかりですが、このあたりが平成を代表するスタンダード名作として語りつがれていくことになりそうです。

(2)日本アカデミー賞またはキネマ旬報ベストテンの最高賞受賞作を2回以上(ただし、平成期に限定して)監督したのは、今村昌平(『黒い雨』、『うなぎ』)、山田洋次(『息子』、『学校』、『たそがれ清兵衛』)、周防正行(『シコふんじゃった』、『Shall We ダンス?』、『それでもボクはやってない』)、新藤兼人(『午後の遺言状』、『一枚のハガキ』)、宮崎駿(『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』)、滝田洋二郎(『壬生義士伝』、『おくりびと』)、是枝裕和(『誰も知らない』、『海街diary』、『三度目の殺人』、『万引き家族』)、山崎貴(『ALWAYS 三丁目の夕日』、『永遠の0』)、李相日(『フラガール』、『悪人』)、石井裕也(『舟を編む』、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』)の10名です。

 このうち、今村昌平(1926~2006年)、山田洋次(1931年~)、および新藤兼人(1912~2012年)は、世代的に平成というより昭和の巨匠というべきでしょう。また年齢的に彼らに近い宮崎駿(1941年生まれ)も平成期の日本映画を語るうえで欠かせない一人ですが、アニメーション映画の監督です。以上の4名を除くと、周防正行(1956年~)、滝田洋二郎(1955年~)、是枝裕和(1962年~)、山崎貴(1964年~)あたりが平成期の代表的な映画監督に数えられますし、世代的に若い、李相日(1974年~)、石井裕也(1983年~)も彼らに続く位置を占めています。

(3)さらに、日本アカデミー賞またはキネマ旬報ベストテンの最高賞に2回以上(ただし、平成期に限定して)携わったカメラマンも11名います。藤澤順一(4回)、高羽哲夫(2回)、栢野直樹(3回)、長沼六男(5回)、奥井敦(2回)、柴崎幸三(3回)、山本英夫(3回)、笠松則通(3回)、浜田毅(3回)、近藤龍人(3回)、瀧本幹也(2回)。

 リストの受賞作に関して言えば、周防正行と栢野直樹、滝田洋二郎と浜田毅、山崎貴と柴崎幸三のコンビに典型的なように、監督とカメラマンとが二人三脚で成功し続ける例が見られます。一方、是枝裕和は、受賞作に関して言えば、4作で3人のカメラマン(山崎裕、瀧本幹也、近藤龍人)と仕事をしています。リスト中で最多の5つの受賞作に携わった長沼六男は、松竹系のカメラマンで山田洋次作品の常連スタッフですが、相米慎二、佐々部清、若松節朗とも組んでいます。さらに藤澤順一は、中原俊、崔洋一、成島出、石井裕也という異なるタイプの監督の下で受賞作を撮っていますし、近藤龍人もまた、吉田大八、呉美保、是枝裕和という個性のきわだつ監督たちとコンビを組んでいます。映画監督とカメラマンとの組み合わせに注目して作品を見直してみるのも面白いでしょう。

 取り上げるべき作家はもちろんほかにも多くいます。平成期、少なくとも1990年代の日本映画を語るとき、北野武の名前を欠かすことはできません。リストには『HANA-BI』が含まれているだけですが、日本映画界に文字通り殴り込みをかけ、新鮮な衝撃を走らせた監督です。平成期には女性監督の活躍も目立つようになりました。その一人、『ディア・ドクター』の西川美和は寡作ながら質の高い作品を生み出しています。

 以上で、予備作業としての作品選びは終わりです。しょ~と・ぴ~すの会では、これらの中から、特徴的な場面(ショット)を選び出し、ストーリーと関連付けながら、それらがなぜわれわれの印象に残るのかを考えてみます。おそらく、『Shall Weダンス?』(1996)、『HANA-BI』(1998)、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)、『おくりびと』(2008)、『ディア・ドクター』(2009)、『悪人』(2010)、『万引き家族』(2018)といった「家族の物語」が中心になります。

【由紀コメント】

前回(9月8日)には上田仁志さんから映画のお話を伺いしました。平成期の日本アカデミー賞受賞作とキネマ旬報ベストテン第1位作品を取り上げ、そこに描かれた「家族」像の諸相を紹介・考察する内容で、たいへん充実しておりました。私としては、時代の変遷にもかかわらず、家族を家族たらしめる「気遣い」の原理は、さほど変わっていないのだな、という感想が一番強く残っております。

第108回 小浜逸郎「日本は凋落を食い止められるか」

【小浜氏の案内文】

 もう皆さんお感じになっていることと思いますが、近年の日本の凋落ぶりには目に余るものがあります。

 20年以上続くデフレによる成長不振、貧困化、度重なる経済政策の失敗、科学技術力の衰弱、国防の脆弱さ、外交や通商交渉の失敗、少子高齢化、大災害の頻発と対応の立ち遅れその他、数え上げればきりがありません。

 今回のしょ~と・ぴ~すの会は、小浜が講師を務めさせていただきますが、この日本の凋落を克服する道はあるかというテーマに焦点を絞ってお話ししたいと思います。

 気負った言い方になりますが、もし克服の道があるとすれば、それは、福沢諭吉があの時代の危機に直面して『学問のすゝめ』その他を著したように、間違った考え方を捨てて新しい「学問」(いまで言えば「思想」)の構えを創り上げるほかはありません。

 いろいろな問題が提起されながら根本原因にまでさかのぼれずに思考停止してしまういまの日本人、最長であるとともに最悪でもあった安倍政権の大失敗の現実などを踏まえ、

話題のMMTの可能性などにも触れながら、か細いながらにそうした新しい思想への糸口だけでも示すことができればと思います。

 なお今回は、レクチャー一本槍で通すのではなく、できるだけ活発な議論の場にしたいとの願いから、次のような方法を取ることにいたします。

 まずいくつかの問題点の概要とそれに対する私なりの考えを手短に整理して発表します。そのあと問題点ごとに皆さんからのご質問にお答えします。さらにそのやり取りを通して議論を発展させるという形で進めます。
 もとより浅学の身としてお答えに窮する場合もあろうかと思いますが、ない力を絞って臨む所存ですので、何卒よろしくお願いいたします。

第109回 田中宏太郎「日本人が英語国で暮らして学んだこと」

 当日発表資料

【田中氏の案内文】

 毎日毎日メディアから外国についての情報が流れない日はありません。顔の違う人たち、異なる文化や習慣、いったい外国とはどんなところなのだろうか、と心の中で無言でつぶやいていませんか?昔に比べて旅行、留学、海外勤務などで渡航したことのある人の数は増えていますが、それでも外国に行ってその国の言葉で何年も暮らしたことのある人はまだ少数派だと思います。そこで、自分の長年にわたるオーストラリア体験を土台にして外国や外国人について知るとはどういうことかについてお話させていただきたいと思います。

 

 オーストラリアに住んでいたのは1980年代後半から2000年代の初めまでですが、その間に中学・高校・大学・社会人学校で日本語教師をし、メルボルン、タスマニア、シドニーの3か所に暮らし、2つの大学で法律と会計を学び、豪州弁護士・会計士としてビジネスの世界の経験も積むことができました。住む場所、接する人達、職業が変わる度に新たな発見があり、何年も住んでいると自分の考え方やマインドも少しずつ変わっていくのに気が付きます。

 

 帰国してからテレビを見たり活字を読んだりしてよく思うのは、①「日本人は○○○」と安易に言う人が多いが、多くの場合「(日本人だけではなくそもそも)人間は○○○」と言い換えられる、②「オーストラリア人は○○○なのに、日本人は×××」と簡単に比較論を述べるが、同じ条件下(地域、社会階層、職業、年齢、性格)の両国人同士を比べてみると実は似ていることが多い、③ 今のオーストラリアを見て「オーストラリアは○○○だ」と言うが、少し昔のオーストラリアはその反対だった、というのに気が付きます。④ さらに、「外国人に聞いてみた」という番組がよくありますが、そこに出ている外国人は、本当にその国を代表している人達でしょうか。総じて言えば、きちんと分析していない情報に私たちはさらされていて、知らないうちにそれを信じていることがよくあるのです。

 

 また、日本人の外国人像はアメリカ人を想定しているようですが、日本人が好んで持ち出す米国流は「グローバルスタンダード」でしょうか?オーストラリア人がアメリカに行くとカルチャーショックを受けるのをご存知ですか?帰国してから仕事や私生活で米国人や英国人を良く知ることができ、同じ英語国でもいろいろ違うところがあると再認識した次第です。日本vs外国だけでなく外国vs外国という視点から物事を見るのも面白いものです。

 

 関連しますが、オーストラリアについてあることを珍しく思ったり、日本と違うなと思った時に、それがオーストラリア特有のことなのか、それとも英語国共通のことなのか、西ヨーロッパで共通のことなのか、欧州全体で共通のことなのか、あるいはアメリカも含めて欧米で共通のことなのかの区別がつくとオーストラリアという国がさらによく理解できます。

 

 オーストラリアから帰国して気が付けば20年近く経ってしまいました。時々は渡豪しているものの今日のオーストラリアの最新事情は肌感覚ではわかりませんが、おそらく変わっていないだろうということも多々あると思いますのでお話させていただきます。また、在豪体験に帰国後の米英体験も含めて学んだ外国や外国人の分析手法は時が経っても、違う国についても使えると思います。たんにオーストラリアの情報だけでなく、将来応用が利く異文化理解技術という観点からも自分の考えを述べ、皆さんと意見交換できれば幸いです。

 

 さらに、最近話題の移民問題ですが、他人ごとではなく自分自身が移民として暮らすというのはどういうことなのか、移民国家というのはどういうところなのかということも触れたいと思います。巷では安易で抽象的な移民論が多いので、具体的な経験を踏まえてお話したいと思います。

 

 それから英語を学ぶということはどういうことなのかもこれらのトピックにからめてお話したいと思います。英語はどうやったら上達するのか、英語教育はどうあるべきか、これも日本人の最大関心事の一つですね。勉強・仕事・私生活でとことん英語を使ってきましたので、自分のライフワークの成果から私見を述べさせていただきたいと思います。

 

 皆さんの外国体験もお聞かせ下さい。特に英語圏以外の体験をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご意見を伺いたいです。ちょっと最後に意味深長ですが、英語国で長年暮らして一番よくわかった「外国」は、実は日本だったかもしれません。

【講師略歴】

 大学卒業後、高校英語教諭を経て渡豪し、オーストラリアで日本語教育に従事。シドニーで会計事務所と法律事務所に勤務した後、帰国して銀行で国際金融の仕事に就く。現在税理士法人で翻訳業務担当。

 

【由紀コメント】

 長年オーストラリアで暮らした講師より、かの国の状況を日本と比較して述べていただきました。たいへん興味深いお話だったのですが、子どもの「自由」「自主性」を重んじる教育に関する部分で、主に私(由紀草一)より疑念が出され、それに時間がかかりすぎた感じが持たれたかも知れません。

第110回 杉浦篤「ラテンアメリカと日本との繋がり」

 日本とボリビア間の国際友好親善交流ための一般社団法人「日本ボリビア協会」の会長をなさっておられます講師より、日本と南米との繋がりについて、ボリビアを入り口として話していただきました。

【以下、講師より】

◎テーマ:ラテンアメリカと日本との繋がり

    (南米ボリビアを入り口として概観的に解説します)

     政治・経済・社会構造

     移民(戦前・戦後・現在、日本・LA相互間)

     資源輸入(鉱・農牧林産物)

     工業製品輸出(自動車・機械など)

     社会・文化(音楽・文学・古代文明)

     国際問題(核軍縮・安保理常任理事国)

     新型コロナ感染状況

【講師略歴】

      1937年大阪生、​

      自動車メーカー、携帯電話キャリアー、

      人材育成コンサルタント会社などに勤務ののち

      最近10年間は、ラテンアメリカ交流民間団体でボランティアとして活​動

【由紀コメント】

 日本では一般にあまりなじみのない中南米について、総合的なお話をうかがえる機会になりました。一番印象深かったのは、ほぼすべての国々でマフィアが跋扈しており、社会の不安定要因となるのと同時に、文化的な発展を阻害している事実です。これも今後人類が取り組んでいくべき課題の一つだと感じました。

第111回 河田容英「『日本書紀』編纂メンバーのひとり忌部子人の生涯からみた国史の成り立ち」

   当日発表レジュメ

   引用資料

​   参照資料

河田氏の案内文】

 今年2020年は『日本書紀』編纂1300年の年であるとして多くのイベントや博物館での展示が計画されていました。(ほとんどがコロナで中止になってしまいましたが…) 
 『日本書紀』は神話と歴史が混在して記されている書ではありますが、ここから日本人のアイデンティティがどのように形作られていったのか、また現代まで続けられている大嘗祭などの行事や祭祀にどのような意味があるのかを理解できるようになります。現代に生きる日本人は、いわゆるグローバル社会・経済と呼ばれる国際情勢のなかで右往左往している感がありますが、日本の成り立ちと国史がどのような経緯でつくられたかを知ることで、ブレない軸のような立ち位置を定めることが出来るのかもしれません。忌部子人という人物は歴史のなかで取り上げられることがほぼ皆無ですが、この人物の視点と置かれた立場から、どのように、そしてなぜ、『日本書紀』がつくられたのかを考えます。

【講師略歴】

 株式会社ログワークス代表取締役。海外大学と日本の大学との提携関係手配や留学の手配、またビジネスパーソン向けに英国国立大学のMBA・DBA学位取得プログラムを運営しています。
 95年前に書かれた「美味求真」という書籍の現代訳と注釈を通して「食」にまつわる文化・歴史的な事象を考察しています。
 HP「美味求真」https://bimikyushin.com/

 論考「忌部子首(子人)から考察する記紀編纂過程と忌部氏の職掌について」https://www.bimikyushin.com/chapter_8/ref_08/inbe.html

 地図:出雲大社 - 平城京 - 伊勢神宮https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1A-wMKRv_UA__mGZeMceXRxRHHYqiQ0Pk&usp=sharing

【由紀コメント】

 奈良時代の貴族忌部子人を日本書紀の編者の一人とする仮定の上で、日本の歴史観≒国家観の成立を考察した緻密にして刺激的な発表でした。私には元来、大陸支那を先蹤としてこの国のかたちをつくっていこうとした先人たちの努力は、根本的にはどういうものだったか、巨視的に知りたいという欲求がありましたが、それにはなかなか結びつかないのは、篤実な歴史研究者である報告者(河田さん)にしてみれば当然です。神は細部に宿るのです。

第112回 由紀草一「万世一系物語」

 当日発表史料

 前回に引き続き日本史の話ですが、単なる歴史好きの素人である私が、なんとか蛇に怖じずのお気楽さで、日本という国の根幹、の一つではないかと思えるものを語ります。

 

 日本人なら誰でも知っているように、この国には天皇(The Japanese Emperor)という独特の存在があります。現在でも世界三十カ国ほどに王様(King)はいて、当然王家もあって、皆それぞれ固有の歴史を背負っていますが、皇室のような例はまず他には見当たりません。何しろ、神話時代から存在したとされ、同一家系(父系)で百二十五代、二十一世紀の今日まで続いているのですから。

 日本の歴史の連続性を証するものと言えますが、皇室もまた時代の影響を受けざるを得ませんでした。逆に言うと、世々の皇室のあり方と捉え方は、その時々の世情を写す鏡になっているでしょう。

 因みに、ですが、天皇が最も激しい変質を蒙ったのは近代です。明治期には大日本帝国の統治者となり、大東亜戦争後は象徴になりました。前者はいわゆる帝国主義時代末期に、欧米列強に伍していくためには、かの地の国家体制をモデルにするしかないと感じられた都合によって、据えられたものです。

 上を経て、現在、日本国はグローバリズムという新手の侵略に曝されています。それとの角逐において、天皇という存在は、グローバルの対極にあるナショナル、即ち「日本的なもの」の本質は何かを考える上での、不可欠なポイントではあるでしょう。

 今回の会では上のような視点から皇室を議論の対象としたいのですが、何しろ相手が巨大すぎるので、すべてを語り尽くすなんぞというのはもとより不可能、私のやれることは、自分の目から見て特徴的ではないか、と思えるポイントをいくつか取り上げて存念を述べることぐらいです。ただ、あんまりいい加減なことを言うのを防ぐために、史料はできるだけ提出しようと思います。

 順序としては、

第一部:三年前の上皇陛下の退位問題から大東亜戦争終戦期、戦前、江戸期まで時代を遡って、近代の天皇が背負うことになった、少なくともそう期待された国家的な意義を考えます。

第二部:古代から奈良朝まで、失われた家系(仁徳系と天武系)の物語を紹介し、天皇という存在の根源の一部を考えます。

 こう言うとたいそう野心的な企てのようですが、繰り返しますと、有名なエピソードに基づいたごく大雑把な話しか出来ませんので、どうぞ御気楽にお出かけいただき、ご意見ご批判を賜れれば幸いです。

 参考文献なども、特に必要ないのですが、高橋紘・所功『皇位継承』(文春新書)、『日本の名著〈9〉慈円・北畠親房』(中央公論社)などはタネ本として使う予定です。

第113回 瀧本 敬士「海外で見聞きした小ネタ百連発(「ショ~ト・ピ~スの会」始まって以  来最もかる~いお話)」 

【瀧本氏の案内文】   

 飯場や自動車部品製造下請け工場で雑役夫をしていた関係で、海外6カ国11都市で生活

しました(東ドイツ、サウジアラビア、スペイン、カナダ、イギリス、アメリカ)。

 その他、出張や観光で47カ国(今回数えてみました。多分あってると思います)を訪問。

全部合わせると、多分30年くらい海外にいたことになります。人生の范文雀(半分弱と

も)でしょうか。

 そこで見聞きしたこと、感じたことをお話ししたいと思います。

 滞在した国以外では、イランや中国についてもちょっと触れる予定です。イランでは、テ

ヘラン空爆の時に現地におり、「所謂ひとつの」最後のトルコ航空機に乗って逃げてきま

した。

 報告内容ですが、飽くまでも、こういう国でこういうことがあったというだけで、その国

がどうだ、ということではありません。

 同じく、どこどこの国の人でこういう人がいたというだけで、どこどこの国の人がどう

だ、ということでもありません。

 現地でお話をした相手は、殆どが隣近所のおじさんおばさん(たまにおねーさんがいたら

な~と思うのですが。残念残念)ですので、その国の政治家がどうだ、官僚システムがど

うだという話は期待しないでください。

 正に、葦の髄から天井覗く、群盲ならぬ一盲が象の尻尾の先っぽを撫でて物申すという感

じの話です。

 ただ、この国ではそういうこともあるのかな、どこどこの国の人にはそういう人もいるの

かな、ということで、その国やその国の人々の一側面を垣間見ることはできるかも知れま

せんし、少しはトリビア的なものもあるかも知れません。

 尚、国によっては40年以上前の記憶に基づいています。40年前というと本当に40年前

だったのかどうかも定かではないくらい昔のことですので、記憶もかなり曖昧になってい

ます。

 従って、そんなはずはないだろう、自分が知っていることと違うぞ、という突っ込みをど

んどん入れて戴ければと思います。

 そして、運良く、参加者の方々が興味を持って戴けるようなネタがあって、そういう国の

人たちの考え方やBehaviorから、多文化共生とはどういうことを言っているのだろう

か、多様性とはどういうことを意味するのだろうか、という方向に話が展開するようなこ

とがあればいいかなと思っています。

 序でに、多様性を受け入れると言った時に、「日本人」という絶滅危惧種を守ろうという

主張はその中に入らないのか、というようなことも話題になれば望外の喜びです(よく本

の序文に書いてある言い方を真似してみました)。

 もう一つ追加ですが、少し毒が入るかも知れません。

以上

 

【発表者略歴】

​ 昭和25年神戸生まれ、育ちは殆ど東京、現在は千葉在住。両親が関西弁だったので、Hearingに関しては、関西弁と東京弁の完璧なバイリンガルです。Speakingについては、一度トライした所、母親から、聞いていて肩が凝るからやめろ、と言われました。東大法卒​。

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第114回 藤田貴也「移民について」

当日発表資料

藤田氏の案内文】

 厚労省の統計を見ると、この十年あまり、外国人労働者数は増加の一途をたどっています。この種の政府統計を確認するまでもなく、一歩外に出れば、昔よりも外国人らしき人が増えたことは肌感覚でもわかると思います。このような状況を国民は歓迎しているのか、反対しているのかは分かりませんが、少なくとも政府が「移民政策」を真正面から表明した場合の国民のハレーションを恐れているのは確かでしょう。それは、政府が「移民受入」を表向きには否定し続け、「技能実習生」等の別の立て付けによる外国人労働者の受け入れ政策を取ってきたこと、また、数年前にも「移民政策と誤解されないように配慮し、総合的な検討を進めていく」(2014年、安倍総理(当時))などの発言があったことからもうかがえます。
 移民に関しては、国民の多くに影響が及ぶ最重要問題の一つでありましょうが、それにもかかわらず、その性質上、忌憚ない議論をしにくいトピックでもあります。それは、よほど慎重にものを言わなければ、「差別」、「ヘイト」、「レイシズム」「ゼノフォビア」等の不名誉なレッテルを貼られかねないからです。
 今回の発表では、安易なヒューマニズムに走るのでもなく、短絡的な排外主義に陥るのでもなく、かといって、単純に経済問題としてのみ捉えるのではなく、冷静な議論となるような素材を提供できればと考えています。
 具体的な発表内容は未定ですが、移民問題を安全保障という枠組みの中で捉えたコペンハーゲン学派の学説は必ず扱います。


第115回 兵頭新児「フェミ急増の謎」
当日発表資料

【兵頭氏の案内文】

 何故近年、ジェンダーフリーやPC(ポリティカルコレクトネス)が勢いを持ってきたかという疑問の一端として、「フェミ急増の謎」をお伝えします。

 マクロ的にはSDGsなどがごり押しされているから、といった原因が考えられましょうが、フェミについてはミクロ的に、個々の女性のメンタリティの変化も原因となっているのではないか、と考えます。

 では、その現れとしての現代のフェミの実態は、その原因は……と言ったことをお話できればと考えております。

 レポーターの兵頭新児はオタクライター。萌え系に代表されるオタク文化は女性性を礼賛するものでありながら、業界のトップには左派の人たちが多くフェミニズムに親和的、といったねじれ状況にずっと悩まされてきました。

 ポリコレ、LGBT、フェミがヤバいとの懸念をお持ちの方はどうぞ、ご参加下さい。

特に参考図書などはありませんが、以下の動画が今回のテーマと被っているので、よければご覧下さい!

風流間唯人の女災対策的読書・第29回「貴女が結婚できなかったのはフェミニストのせいである」(https://www.youtube.com/watch?v=yJqeq6C9Aek

風流間唯人の女災対策的読書・第22回「これからのアンチフェミへ」(https://www.youtube.com/watch?v=b25lPhpX5Mo

第116回 小西一也「基礎から論考する地球温暖化 -科学・歴史・懐疑論-」

【小西氏の案内文】 

 私は3年ほど前から昨年にかけて、以下の文章を書いておりました。

『基礎から論考する地球温暖化 -科学・歴史・懐疑論-』
https://globalwarmingronko.wordpress.com/

(これは今回のテキストではありません。会では別に作ったレジュメにて説明させていただきます。)

 これを見て、私を温暖化を専門にしてきたと思われるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、温暖化の科学的な部分がよくわかっておらず、温暖化の全体像を知りたいと思って文章を作成しました。 
 それで見えてきたことは、実は、特に国内において、温暖化に関する情報は極めて限定されていて、「懐疑論」が横行しても仕方がない状況にあること、温暖化の科学は決して簡単なものではない(だから、安易に論ずることは大きな誤りにつながる)が、中高生レベルの知識でも、温暖化の科学を、ある程度は理解することが可能だということです。

 一方、会の限られた時間では、勉強として基礎レベルの温暖化の話をすることは可能ですが、温暖化の科学そのものの妥当性を議論することは不可能、というのが私の立場です。(その意味で、懐疑論は、そのほとんどが意味がありません。)

 この問題の社会的な影響を考えれば、この会に多くの方々に参加いただくのが理想かと思いますが、温暖化論議は感情的になる傾向があるようで、科学者の間でも裁判沙汰になったりしています。今回の議論でストレスを感じる可能性のある方にはおすすめしません。
 読書会では、あくまで科学研究の一端や他分野の科学問題などを共有することで、温暖化の理解を深めることを目標としたいと思います。


会用のレジュメです。
第116回しょ~とぴ~すの会レジュメ.pdf - Google ドライブ


◎発表者略歴
東京学芸大学 教育学部 自然環境科学専攻 数理科学選修 卒業
同大学院 教育学研究科 修士課程 理科教育専攻(物理学第二分野)修了
平成7年~ 浅野中学・高等学校 教諭
平成4年「第11回『教職課程』懸賞論文」優秀賞受賞(賞金2万円 52作中優秀賞2作)
平成11年「第5回読売論壇新人賞」佳作入選(賞金20万円 321作中入選8作)
(この頃より、しょ~と・ぴ~すの会に参加)
平成13年 理工学振興会(東京工業大学内)教育研究助成授与

令和4年度 神奈川県高体連アーチェリー専門部 専門委員長

第117回 但馬オサム・兵頭新児・宙みつき「日本におけるLGBT(Q)問題理解のために」

【当日発表資料】兵頭新児:LGBTにまつわる人権と覇権

 本会としては珍しく、シンポジウム形式で、本年成立した「LGBT理解増進法」(正式名称「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」)の背景と問題性に関する話し合いをしました。

 LGBT当事者(ゲイ)の方のおかげで、ここに至る背景の一つはよくわかりました。個人的には今はパートナーの方といっしょに、きわめて幸福に暮らしているそうで、その意味では法律などいらないわけですが、それでも推進する。そのわけは、

(1)欧米を初めとする自由主義諸国は、たいてい同性婚まで認める段階に至っており、そことの外交・貿易のためには、LGBT問題に対して日本が国として無関心ではないことを示したほうが有利。

(2)かつての人権擁護法案(平成14年)など、これに関連する野党側の動きは、人権侵害=差別に関する定義が曖昧なままに、規制だけを強める非常に危険なものである。今回の理念法は、その先手をうって彼らを黙らせるカウンターとしての効果を持つ。

 ここには議論しなければならないポイントがあると思いますが、当日は、それ以外に、日本のゲイ文化やLGBTとフェミニズムとの関係など、様々な情報が飛び交い、収束しないままに終わりました。それも当会では珍しくありませんし、自由闊達な話し合いで楽しい思いはしましたので、あとは個々人が考えていけばいいのだ、と無能な司会の私としては考えております。

 

第118回  藤田貴也「小浜逸郎ー《生活者の思想》」

【当日発表資料】

本会の創設者で本年物故した小浜逸郎という稀有の思想家について改めて考える会を持ちました。

 藤田貴也さんのレポートは、小浜の全著作を読み込んだ上で、小浜思想の本質から文章作法の特質まで極めて適切にまとめたすぐれたもので、参加者に大きな感銘を与えました。

 しかし、討論になると、私も含めた小浜の昔からの読者、のみならず個人的な関わりのある人も多く、それぞれの思いが強く、そこから発言がどうしても多くなって、新来の参加者には戸惑いを与えることもありました。

 それでも、藤田さんが表題にした「生活者の思想」は小浜観としては外せないものであることは共有された、と言ってよいと思います。西洋哲学・思想を広く学び、現代社会について精緻な分析を示しながら、「普通に生活する人々」への眼差しを決して忘れないところに、小浜の最大の特質があり、これはたいへん珍重すべき特質であって、後生に伝えるべく、微力を尽くすべきだな、と強く感じました。

第119回  濱田玲央「実践の思想家 小浜逸郎~『倫理の起源』を読む」

 本会の創設者小浜逸郎の、最後の代表作である大著『倫理の起源』について、若きロシア文学の研究者にして北海道でワイン作りに取り組んでいる濱田玲央さんからレポートしていただきました。

​ 濱田さんの労作である発表要旨は以下です。

​ 実践の思想家 小浜逸郎~『倫理の起源』を読む~

 

​ 次に【『倫理の起源』について「この点はぜひ皆で考えたい・検討したい」という参加者の方は、文章の形にしてご持参頂けたら】という濱田さんのお申し出に従い、古川徹朗さん、由紀草一、それに、それを踏まえた上で司会の小林知行さんが目録と省察を書いてくれた小林知行さんの文章を以下に掲げておきました。

 検討希望事項

 

 当日は、特に由紀草一の文書を中心に話し合いがもたれた後半から、少し重い雰囲気になってしまいました。それはなぜか、⬆の真ん中に収めた文書を読んでいただければ察せられると思います。これがなければもっと和やかな会になったでしょうが、私にとって小浜の倫理学は長い年月をかけてよく練り上げられた成果であると同時に、さらに新たな段階へと思考を進めるための大切なステップであって、それを活かすためには通り一遍の賛辞だけではすませられない、という思いが溢れた結果です。ご不快に感じられた方がいたらお詫び申し上げますとともに、これが小浜思想を自分のものにするきっかけになれば幸甚です。

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