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子どものための精神医学レジュメ

1.診断について

 身体医学では、近代以降、診断はどこが(病巣)、なにによって(病因)、どう(病理)失調しているかによって行われる(p44)。症状によって診断されるのではない。なぜならば症状(たとえば熱)はさまざまな病気に共通してみられるので(非特異的)、病気を特定するのには向かないからである。

 ところが精神医学では「症状」によって診断が行われる。これは社会的・対人的な(つまり誰がどんな状況で患者とどのような関係を築いて行われる)「判断」なのである。

 こういわれてみれば確かにそうだけれど、このようなことをストレートに述べた専門家を(不勉強にして?)知らない。「判断」なので、表面的な「判断」や深い「判断」、間違った「判断」がありうる。こう考えると、「とにかく医者(専門家)に診断してもらえば安心」という考えの危うさがわかる。しかし、一方で滝川氏は「診断には納得と安心の力がある」と理解を示す。それでも診断は治療の「入場券」に過ぎず、大事なのは、クライエントへの援助に関する個別的で具体的な理解(formulation)である。

 

2.「精神発達」について

 ここからがすごい。精神発達を認識(Y軸)と関係(X軸)との相互作用としてみていくことが提唱される。Y軸にピアジェの発達理論、X軸にフロイトの発達理論が割り当てられる。ピアジェの専門的研究者、フロイトの専門的研究者はいるけれども、この二つを組み合わせて考えたひとがいるだろうか。そしてそれぞれについて平易に説明される。

 そしてピアジェの発達理論では「関係」が見えていないと「チクリ」と刺す。認識の発達も周囲との交流を通して行われるのである。

 さらにフロイト。「小児性愛」を発達論の鍵概念とした点への再評価。「人間の性愛は、最初、乳幼児が養育者との愛撫的なかかわりと求める心身未分化な深い欲求として始まる」(p86)。しかもこれは双方向的なものである。他の論文では(記憶によれば)、赤ちゃんをみると私たちは思わずほっぺたをすりすりしたくなったり、チューをしたくなったりするし、赤ちゃんもそれを求めているような様子を見せる。これと成人の男女が互いに抱きしめあったり、キスをしたりするときの欲求と源を同じくする、と。これは「種の保存」ということだけを考えれば不要ではないかと。「なるほど」!である。「種の保存」だけを目的としていない点においてすべての人間は「性倒錯」なのである。

3.二人関係から三人関係へ

 フロイトは、この点を①男の子は母親を独り占めしたい②父親を排除したい③父親に去勢されるのではという不安、という葛藤(エディプスの三角形)から、父親と同一化(攻撃者との同一化;アンナ・フロイト)して男性性を身に着けていく。女性はこの反対。滝川氏は、これはこの時代のウィーンならではの仮設とする。現代では「二人関係から三人関係への移行(P142)」と考えたほうが合うと述べる。二人関係は私と母親、父親、・・・・それぞれの閉じられた関係である。そこでは原因結果がその中でだけ生じると捉えられている。母親が機嫌が悪ければ自分が母親を不快にすることをしたから。しかし、三人関係になると、目の前の相手に影響を及ぼしている他者と相手との関係が視野に入ってくる。いま母親が怒っているのは、父親と夫婦喧嘩をしたからかもしれない、など。

これについての連想。映画「クレイマー、クレイマー」の一場面。母親(ミセス・クレイマー)が仕事中心の夫(ミスター・クレイマー)に愛想が尽きて家出する。それから父子二人の生活。しばらくはむしろ父親を気遣う良い子だった一人息子ビリー。しかし、だんだん聞き分けが悪くなり、父親をいらだたせる振る舞いに。二人とも爆発して、叱られたビリーはベッドで泣き寝入り。そこへ少し落ち着いた父親がベッドにいくと、「お父さんも出ていっちゃうの?」と思いもかけないことば。「そんなことはない。でもなんで?」に「ぼくが悪い子だからお母さん出て行ったの」にビリーの行動のわけがわかった父親。その後、父親が家庭をかえりみず、しかも妻の話を聞こうともしなかったので、母親がでていったこと、でもなんとか我慢しようとしていたのは、ビリーを愛していたからと説明し、ビリーは納得する。するとビリーの顔が思いなしか大人びて見える。父親「じゃあ、早く寝たほうがいいぞ」ビリー「お父さんもね」と気遣いあう。説明するまでもないが、「ぼくが悪い子だから・・・」が二人関係の世界、「夫に愛想が尽きて出て行ったという理解」が三人関係の世界。

そして三人関係の世界に入っても人間は二人関係の世界をも残しているし、それがなければ味気ない対人世界になるだろう。

 

4.発達障害をどう考えるか

 170ページの図は第Ⅰ部の直前にもあるが、この図は〇〇賞受賞級の発見ではないかとつねづね考えている。カナーの「内因性」、ベッテルハイムらの心因性、ラターらの外因性と自閉症は歴史的にすべての病因論を渡り歩いてきて、熱い論争が繰り広げられてきた。しかし、この図を見れば「ああ、そういうことだったのか」と拍子抜けするくらい深く納得する。ここ数年、私は大学の心理学演習でベッテルハイムの英語の論文「Joey; Mechanical Boy」を読んでいるが、それを読むと、たしかにこの両親はひどいよね、これじゃあ子どもが気の毒だ、になる。しかし、その後の調査研究で、自閉症児の親が健常児の親と比べて共感性が劣るかというとそんなことはないという結果が出て、心因論は猛烈なバッシングにさらされるのである。「心因論」の買うべき点は自閉症児の心的世界を描き出したことなのである。養育者との相互交流の乏しさを養育者側からだけ見ようとした点に問題があった。極度の無力感、基本的信頼感の希薄さなどは、自閉症児が素質的に関係を持ちにくいことから考えれば説明できる。

 

5.発達障害における体験世界

例の図から自閉症児の体験世界が描き出される。①不安・緊張・孤独②発達の遅れと言葉の遅れ③認識発達の遅れと孤独④関係発達の遅れと孤独、⑤高い感覚性の世界。自閉症児や他の発達障害の子どもが示す「異常」な行動に込められている意味がわかる。「自分だってそういう条件に置かれればそうなって不思議はない」と。そういえば例の図は定型発達も連続していることが肝。自閉症だけがスペクトラムなのではなく、発達全体がスペクトラムなのである。

 そして、図は援助の工夫にもつながる(参考資料1)

6.育てる側のむずかしさ 「虐待」使用をやめよう

 まず、子育てについて江戸時代にさかのぼって、歴史的編成をたどり、現代の子育てを位置づける点は滝川氏ならではと感じる。そして「虐待」の概念を捨てることを提案する。「虐待」の語は親にとっても子どもにとっても不幸であると。

 そこで、私が読んだある事例をあげたい。書いてあることはたしかにそうだろうなと思えるが、なにか違和感を感じる。しかしその違和感がなんなのかわからないもどかしさ。「私が親の被害者だ」という言い分を真剣に聞いてくれて、親にも「やり方を改めなさい」と伝えてくれたことで大きく改善したことは事実なのだろうが・・・

 

7.「そもそも」から 滝川氏の着想

 まだ「不登校」「いじめ」をとりあげていないが、それらは皆さんからの発言を期待して、滝川氏の論文でいつも感じることを伝えたい。

 どの論文でも(そのままは書かれていなくても)、「そもそも発達とは」「そもそも学校とは」「そもそも精神療法とは」などなど「そもそも」から出発して、とてつもない(と私には感じられる)ところに到達する。一方私は「そもそも」とは考えず、勉強でいえば「チャート式」を駆使してきた。そう考えていくと、きっと滝川氏は数学で行き詰まったはずだと思い、たずねてみたら、やはり中学数学で行き詰ったとおっしゃった(と記憶している)。教師に相談に行ったら「こういうものだと思いなさい」といわれて解決したと。

 私のほうはといえば、高校まで理系が得意だと思い込んで大学理系にすすんだら、まったく歯が立たない経験をした。今振り返ると数学は少ない公理から出発して定理を証明するというもの。「そもそも」に近い。結局4年間理系にしがみつこうとしたものの断念。「そもそも自分はどう生きたいのか」に直面し、出会いに恵まれて臨床心理学の世界に。最近ようやく「臨床心理学」の世界があってよかった、と思えるようになった。そうそう、チャート式の私にも滝川先生の論文はとても役に立っています。

 最後に妙な告白でした。

 

 皆さん、どうぞ活発なディスカッションをお願いいたします。

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