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                                                                                                                                                                           2018.01.28 河南              

本能寺の変(実は明智光秀の乱または天正十年六月政変)を、中世の文脈で考える 

 

(主な、参照文献:『明智光秀の乱~天正十年六月政変・織田政権の成立と崩壊』(小林正信 里文出版)

太字=河南の感想 〇教科書体=本書からの引用 ◇斜字体=その他書からの引用  

※テーマは、表題の通りである。                  

①「明智光秀」・・・ 明智光秀とは誰か? または 誰でなければならないか?

②「乱」・・・・・・「乱 または 政変」である。本能寺の「変」ではない。

③「中世」・・・・・ 中世とは何か? 近世への移行はいつ・どのように行われたのか?

④「文脈」・・・・・ 後世に作り出したストーリィでなく。「今を生きる」・「絶対現在」の観点から

⑤「考える」・・・・ 通説や奇抜説に捉われず

 

1.本書との出会い   

   いわゆる「本能寺の変」の謎解き本(歴史小説)を読み漁る道すがら、偶然手に触れたのが本書である。ページを繰るにつれ、迷いつつ渉猟する小道からにわかに歴史の大路に飛び出たような、驚愕とともに興味津々たる内容が展開した。

 

 さて、日本史には「○○の謎」と呼ばれ、その原因と帰趨が謎として、繰り返し歴史小説や評論に書かれている出来事がある(注1-1)。

(注1-1)邪馬台国、桶狭間の戦、本能寺の変、関ヶ原の戦。さらに加えれば、川中島の戦、長篠の戦、忠臣蔵、新撰組、鳥羽伏見の戦、栗田艦隊の反転 etc.

 なお、さらに日本国誕生の謎にまで踏み込む「大化の改新、壬申の乱」があるが、謎が大きすぎてまた畏れ多いことにも及ぶことから、却って小説の題材になりにくい事件もある。

 特に「本能寺の変」は、歴史小説において途切れることなく新たな説が唱えられている。これら歴史小説が想定する読者層は、日本の中に一定数存在する歴史好きを自認する人を対象にしているので、どんな荒唐無稽な説も許され、むしろ新奇で面白いものこそ歓迎される。そこでは、読者がひととき作者の語りに酔いしれ、作者もまたこれでもかとアクロバチックな筆芸を披露する(注1-2)。

 しかし、荒唐無稽あるいはアクロバチックといっても、史実を尊重することを踏み外してはならないのである。漫画的な史実無視の歴史小説は、これらの人たちは決して手にとらないものである。

 歴史小説や評論が、既説の史実をひっくり返すことは常々あることであり、むしろ目的でさえある。この場合は、他の多くの史実を根拠として踏まえ、納得のいく推論を経て、新たな史実が導出される。この時、読者は優れた推理小説か、科学的証明かのように作者の結論を快感と共に受け入れるのだ。

(注1-2)明智光秀、織田信長、徳川家康について、通説・奇抜説・本書説の例を巻末・補遺に記す。

 

2.われわれは、「矮小化された本能寺の変」に捉われてきた。

 本書は、通説に埋もれた歴史のベールを剥ぎ取り、代りに透徹した歴史観をもってその本質を顕わにしてくれるものである。本書は最上の歴史小説によって得られるような「既説の史実のでんぐりがえし」の快感がある。同時に、史実が新たな統一観で整列され、また日本史の根幹にかかわる新たな歴史観をも与えてくれる。無味乾燥な学術的論文が多い中で、本書においては学問的構想力が、小説の構想力を凌駕しており、むしろ本書を根底において新たな小説が書かれることが期待される。

 

 著者は、かの出来事を「本能寺の変」とは呼ばない、「明智光秀の乱」あるいは「天正十年六月政変」と称する。これを認めることが、われわれが歴史への入り口の第一歩を辿れることとなると言う。「変」と言うには、あの出来事をあまりに過小評価するもの、と筆者は言う。関わった人数の規模、目的の壮大さからして、「乱」あるいは「政変」と呼ぶべき、国のあり方に関わる政体構想の矛盾に淵源をもつ出来事なのだ。

 事件後に、関わりがあった者は護身のために事件の真実を隠したこと、また事件後に成立した秀吉政権が出来事を過小評価するにやっきとなったことが、現在においても尾を引いているのである。思えば、われわれは「歴史の眼」をもって「本能寺の変」を見てこなかったのである。

 「本能寺の変」は、その目的が烏有に帰した直後から、その原因を明智光秀の個人的な怨恨、権力への野望などに帰することによって、事件そのものの意味を矮小化してきた。天皇に近い人々は真実を隠蔽し、新政権を担う秀吉によってはその権威付けのために光秀を卑小化した物語を作って来た。徳川時代においては、政治向きの言説を禁じる流れの中で、世話物的な物語として語られた。近代においても、個人的な出世欲、人間関係の相克や破綻としてのみ語られてきた(注2-1)。

 (注2-1)信長公記、明智討ち(秀吉能)、甫庵本太閤記、甫庵本信長記、当代記

      歌舞伎「絵本太功記」、吉川英治、司馬遼太郎、津本陽

 

3.帯

 本書の「帯」において、極めて簡略に要旨が述べられている。

 ここに「魔王」のような信長像はない。主人にいじめられる弱い光秀像はない。個性の描写に代って、歴史の流れと構造が前面にでている。いつの世にもある世話物話のように好悪の心理で動く人物ではなく、時代の枠組みの中で、周囲のしがらみと環境の中で立ち居振る舞う人物である。つまり、人物は抽象化されておらず、具体的に語られている。

 歴史上の人物の思考や行動を、彼らが生きた時代において考えることは当然のことである。しかし、今の歴史小説が、覇者にして魔王の信長像を描くのは、力や財力のあるものが世界を制覇する、という「現代的観念から逆向きに過去の時代を捉えている」に過ぎない。

 本書を読み進むにおいて、おいおい筆者が明らかにすることであるが、信長は幕府周辺から嘱望されて上洛し、その期待に応えるべく当時の法と慣例に沿って統治を開始した。その意味で信長は、優れた「中世人」であった。そして同時に、「天下布武」を掲げて時代の矛盾を克服すべく模索していたのである。

 光秀もまた「中世人」であり、小説の通例的解釈とは全く逆の光秀像が展開する。これは、本書の主題であり、読み進むにおいて、筆者から明らかにされるものである。

 

○光秀とは何者だったのか? 

・いわゆる「本能寺の変」で知られる明智光秀の謎は何を意味するのか。本書ではその実像と政変の動機に迫ることで、日本史研究における中世と近世の間に生まれた空白の真実を解き明かす。

・信長が足利義昭を奉じて上洛してから一月あまり過ぎた永禄十一年十一月十四日、突然、明智光秀という正体不明の人物が今日伝わる確かな史料に忽然と登場する。光秀は、信長の家臣ではなく、室町幕府の官僚機構を牛耳る大物「奉公衆」であった。だからこそ信長は、この人物をヘッドハンティングして、破格の地位を与えた。しかし信長の「天下構想」は、光秀の「室町幕府再興」の信条とはやがて乖離していく。光秀が統括した幕府官僚機構の上で君臨していた天下人の土台は、もともと危なかった。

・そして信長は毛利の外交僧安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、十年前に予言した通り、「高転びに転ぶ」ことになる!(帯より)

注)安国寺恵瓊書簡
 一筆申上候。京都之儀形の如くに調ひ、今日十二、備前岡山に至り罷り着き候。(中略)信長之代、五年三年者持たるべく候。明年辺者、公家などに成さるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候。面上之時、万々申し上ぐべく候。明日十三、吉田へ罷り下り候。吉田より万々申し上ぐべく候。此の由貴意を得候。恐惶謹言

                                       十二月十二日(天正元年)  恵瓊

                                         山県越前守殿 井上又右衛門尉殿

歴史学者はいつまで明智光秀を「謎の人物」のままに放置しておくのか、それとも小説家が書くように「素浪人」のままにして置くのか? 著者は、「光秀の事跡から逆算して、明智光秀になり得る人物は誰か」と問題を設定し、文献上の人物からその正体をあぶりだしていく。信長が部下に対して「改名好き」であることも傍証に入れながら・・・。

 

4.表紙裏

 本書の「表紙裏」において、筆者の学説がその学恩を三鬼清一郎氏に負っていることを示唆している。

これによると、きわめて大きな指針が先に示されていて、筆者はこれに導かれて、古文書を当たり証拠を見つけ、かつ推理力をたくましくして論理的に光秀の影を追求している。

○「本能寺の変と明智光秀」(2009年2月27日)

三鬼清一郎名古屋大学名誉教授講演(神奈川大学主催)より

一、光秀の信条は、一貫して「室町幕府の再興」にあった。

二、これが正しいとするならば、将軍義昭が信長と敵対関係にあったとしても、決定的な事態にいたらないかぎり、最後の手段に訴えなかったであろう。

三、逆に言えば、光秀がどの時点で「幕府再興」の途が断たれたと判断したかが問題となる。

四、これは、資料により証明可能なはずである。(表紙裏より)

※2019.9.13 新聞記事:明智光秀の「書状」の原本発見~「本能寺の変」直後、反信長の豪族に強力要請

                         「室町幕府再興説を裏付け」

5.はじめに

 「はじめに」において、著者は本書を読むにあたり前提となるべき知識、及び本書が説く論説の全体像を述べている。

 

(1)いわゆる「本能寺の変」は、中世から近世へ移行する過程で生じた大事件である。

○その理解は未だに百家争鳴で混乱した状態であり、歴史学的には空白である。これを埋めなければ日本史は成立しない。この問題の解明は、われわれに新たな歴史観をもたらすものであり、また、それだけでなく莫大な副産物がそれにともない生じるものである。(p3)

 

 莫大な副産物とは、本書を読了した後に読者が得るものであり、「本能寺の変」の理解のみならず、「日本史の構造を把握できる幾多の知見」のことである。

 なぜ、副産物か? 真理とは、「どれだけ諸事を矛盾なく体系的により広い範囲で説明できるか」である。新しい視点を確保できれば、それに伴い多くのものが見えてくるものである。

 本書では、「中世の実相」「室町幕府」「幕府奉公衆」「武家統治の二元性・統治権と君主権」「東国と畿内・西国の二元性」「封建制と律令制(公家一統)」などに関する新たな知見が得られる。さらに「史実が、ばらばらでなく、有機的に意味を持って繋がる」という目から鱗の統一感が出来する。

 こうした基本的な歴史概念を明らかにしつつ、著者は「天正十年六月の政変は、中世と近世の大きな空白であり、信長、光秀といった個人の問題の次元ではなく、日本史全体にも派生していく重大な事案であることから、国家原理そのものに直面することになる」と読者を導いていく。

 

(2)いわゆる「本能寺の変」という一般的な名称は、事件を表現するには誤った歴史用語である。

○明智光秀が動員した一万三千とも言われる軍勢の規模と政権の転覆を意図した事情から考えて、その実態が大規模な軍事的な反乱であったということは動かないことから、「乱」とする方が論理的に整合する。それを小規模な兵力による襲撃を指す「変」と呼ぶことは誤りと言える。(p4)

 

(3)室町幕府の滅亡時期は、教科書が記述している一五七三年(天正元年)七月ではない。

○この時信長は、将軍権力の回復を目指した十五代将軍足利義昭と対立して、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした、という説が通説ではある。このような教科書的な論に従うならば、「明智光秀の乱」の理由は永久に解明できない(p5)。

 信長が義昭を追放した事実はなく、まして信長が室町幕府を滅ぼしたことはない。

 将軍足利義昭は確かに中央政界で失脚し、結局、毛利氏を頼って亡命した。室町幕府の将軍が京を離れ地方に身を寄せることは、その前にもしばしば為されていたことである。義昭は、備後国鞆において、将軍職のまま、幕府文書を発給し続けたのである。また、京においては、室町幕府の統治機構、現代的に言い換えれば、その官僚機構はそのまま温存されていたのである。

○本書ではこの統治機構を実際に統括していた人物こそが、明智光秀その人だと考えている。(p5)

 明智光秀は、「二百数十年続いた室町幕府を支える官僚機構の中心人物であり」、信長の下僚ではなく、まして流浪の素浪人あがりの人物ではない。読者は、なじんできた司馬遼太郎や津本陽の小説をはじめ、あらゆる光秀に関する通説を破棄しなければならないのである。政治家と違い、行政官は経験(法規、慣習、組織、人脈)がものをいう。浪人が、二百数十年続いた幕府機構の中で、いきなり能力を発揮できないのである。

 そして、室町幕府官僚のトップである光秀が幕府を維持すべく織田政権に反逆した時、その失敗によって、室町幕府も共倒れに滅亡したのである。従って、「室町幕府滅亡の時期」は、「明智光秀の乱」の天正十年(一五八二年)六月である。

                           補遺参照「明智光秀の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説」

 ※閑話休題。通説では「素浪人」、実は「幕府の奉公衆」という、似たようなケースが別にある。小田原の後北条氏の祖「伊勢宗瑞」である。戦国時代を始めた男と戦国時代を終わらせた男が、似たような伝説を持っているのも何かの符合であろうか。

 

(4)「明智光秀の乱」の原因。中世末期における国家観の相克である。

○前記のような明智光秀像を受け入れることによって、明智光秀が反乱を起こした原因を理解する入口に立てる。それは、武家政権内の路線対立の問題であった、同時に武家政権と朝廷(公家政権)との国家観をめぐる相克であった。(p5)

 

(5)筆者は、明智光秀を「中世最後の人物」と称する。

○「本能寺の変」は「中世から近世へ移行する過程で生じた大事件である」。(p1,p6)

 

 なぜ、そのように言えるのかは、おいおい本書が明らかにすることであろう。また、日本史においてそもそも「中世とは何か、近世とは何か」ということの理解については、重要な問題でありそうだが本書の範囲ではない(注5-1)。しかし、本書を理解するには、この二つのタームの概念を理解しておく必要がある。

 

(注5-1)

◇中世=乱世=アナーキーな時代

◇『応仁の乱について』(内藤湖南)

・「大体今日の日本を知るために日本の研究をするためには、古代の研究をする必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感じられませぬ」

◇『江戸時代とはなにか』(尾藤正英 岩波現代文庫)

・「一四世紀から一六世紀にかけて、戦乱の時代あるいは社会変動の時代が続いたということは、日本史の全体を考える上では重要な意味を持っているのであって、要するにここにこそ、時代区分をするとすれば、最も大きな境目があると言えるのではないかと思うのです。つまり古代、中世は連続していて、中世と近世の間、南北朝から戦国の時期、そこにこそはっきりした区画線があって、そのあとまた近世、近代は連続している。そのように考えると、日本の歴史は二つに分れる」

◇『日本近世の起源』(渡辺京二 洋泉社MC新書)

・「乱取り、掠奪、放火、作物の刈り捨て等々、戦乱に伴う暴行は支配者・被支配者が矛盾・対立を含みながら一体となって作り出した「乱世」的現象であった。この乱世が新しい秩序を生み出すための陣痛であったとしても、ひとはそのような状態に安住することはできない。乱世は誰かが終熄させねばならなかったのである。もちろんその誰かが一人や二人の英雄ではなく、無数の地下人たちの複合した相貌で立ち現れたとしても。」

『鉄砲とその時代』(三鬼清一郎 教育社歴史新書)

・北陸のように、本願寺を領主とする門徒領国制が成立したところでは、一揆勢力はみずから年貢・夫役を徴収し、裁判を行なうなど、権力機構としての性格を帯びていた。在地領主としての本願寺は、門徒領民に対して、死刑をも含んだ強い成敗権を保持し、軍勢催促などを行なっている。

 信長が伊勢長島を攻略していたころ、北陸地方はすさまじい勢いで一揆勢が支配をひろめていた。その翌年、信長は大軍をさしむけ、越前などで一部を奪回したが、戦局は一進一退であった。(天正四年1576)信長の武将である前田利家は、越前一揆に加わった千余人の門徒を捕え、磔・釜ゆでといった残虐な処刑を行なった。この事実は、福井県武生市から出上した文字瓦に達筆な字体で刻まれており、悲惨な情況を今日に伝えている。

 このように、異常なまでに徹底した強圧策がとられたのは、一向一揆が、在地に根ざした封建的支配をめざす勢力として、信長には最も危険な存在に映ったからである。国人・地侍と名主百姓・平百姓らが結合し、横のつながりをもちながら地域的権力を樹立していくことは、一円領主化をめざす統一権力にとって強い敵対物となる。したがって、侍と百姓とが結びついた体制を解体し、その一部を家臣団に編入して在地と切り離し、その他の部分を武装解除して、農業などに専念させる方策がとられた。領主階級がヒエラルヒーをつくり、総体としての力で百姓から年貢・夫役を徴収し、商人・職人などをも支配しうるような体制の確立こそが、近世封建制のめざす道だったのである。兵農分離とは、このような内容を含んでいる。

 

6.序章 三鬼清一郎氏の学説と「室町幕府奉公衆」

 いよいよ、本章から本論に入る。ここでも著者は、いくつかの新たな視点を読者に提供する。この視点に立たない限り、「明智光秀の乱」あるいは「天正十年六月政変」の真実に迫ることはできない。

 

(1)個性の問題から構造矛盾の解明へ

 筆者は、いわゆる「本能寺の変」を探究するにあたり、本質を見抜く視点をとる。事件の原因を個人的な心情に求める視点に立つかぎり、謎が謎を生むばかりであると指摘する。筆者は、日本史を構造的に見る視点に立っている。

 

○これまでもこの問題は、様々な議論がなされてきました。代表的な説として「野望説」と「怨恨説」がありますが、(略)あまりにも短絡的な発想によるものです。信長も光秀もその程度のレベルの人物ではないことは当然です。(p17)

○(従来の)いずれの議論も、光秀や信長、あるいは義昭にしても個人の思惑を中心にして考えている点では同じと言えます。筆者も信長や光秀などの偉大な個性や資質は認めています。しかし信長や光秀のような卓越した個人の力量をもってしても、両者ともに望むはずがない、あのような結末に至らざるをえなかった、結局は克服しえなかった歴史構造の矛盾を解明しなければ、明智光秀が反乱に至る真相も永遠に当を得ない説明になってしまうのではないかと考えます。(p19)

○これまで「本能寺の変」と呼ばれてきた、日本史における未曽有の大事件は、合理的な説明がなされていない現状があります.この問題は日本中世史と日本近世史が断絶している現状を示しており、あらゆるレベルの研究者にとって大きな課題として残されています。

 この大きな断層が今も不整合なまま放置されていることによって、中世史はその終点が不明となり、近世史はその起点が不明のまま別個に存在している状態にある、と言っても過言ではないと思います。だからこそ、この問題が解明されることにより、日本史は大きく動くことになります。(p17)

 

 上記の引用の中で、分かりづらいのが「この問題は日本中世史と日本近世史が断絶している現状を示しており、あらゆるレベルの研究者にとって大きな課題として残されています」というくだりである。

 

 天正十年の時点において、国家原理を如何に形づくるか、さまざまな思惑が交差していた。

 光秀の立場は明瞭である、すなわち室町幕府を盛時の頃の姿に再興することである。しかし、同じ幕府奉公衆の細川藤孝は正親町帝寄りの考えであった。

 正親町帝は、律令体制あるいは後醍醐天皇の遺志を継ぎ、日本国を「公家一統」の体制に戻そうとするものであった。藤孝周辺の文化人グループは、師の三条実澄や米田求政(こめだもとまさ)、里村紹巴、津田宗及、大村由己、吉田兼見など連歌会の常連は、活発に動き回りその政治的な方向性は帝と同じであり、また彼らは秀吉とも通じていた。

  信長の考えは、自らは平家・太政大臣として公武を統括して室町殿の支配領域を継承し、家康は関東の公方の領域を引き継いで征夷大将軍となる武家独裁の支配体制にあった。信長の政治目的は、一貫して領域的支配権の拡大による統治権的支配権の確立であり、主従制的支配権の克服にあった。また中世社会では、裁判権、その裏づけとなる暴力手段は各権門に分散されていたが、信長は武家階級にそれを集中させることで武家独裁の政治を実現することにあった。

 「明智光秀の乱」は、その失敗により「織田=明智体制」と「室町幕府」を同時に破砕し、「織田=徳川体制」の芽をつぶし、歴史の間奏曲ともいうべき「天皇=豊臣政権」を蜃気楼のように現出させ、やがて紆余曲折(文禄慶長の役、関ケ原合戦、大坂の陣)の末に、ようやく信長の遺志を継承する徳川幕藩体制に移行するのである。

 

著者はこのような中世の文脈の中で、「明智光秀の乱」を論じ、本書が中世から近世への移行を理解する上に不可欠の存在であると述べている。

 

(2)室町幕府奉公衆

 明智光秀が、将軍義昭の側近にして織田信長の下僚であることは、通説である。しかし、どの小説も光秀の経歴については、あいまいな記述である。美濃明智城のゆかりの者で、諸国流浪の果て(人脈を養い、軍学・地政学・鉄砲術などを学び)、細川藤孝とともに足利義昭を寺から救出し、越前朝倉家を頼るも埒があかず、ついには織田信長の助けを求めて、義昭の上洛を果たす。これらの功により、信長に最も重用される武将となり・・・。

 筆者が説く明智光秀像はこれらの常識とは全く異なる。筆者が立つ視点は、「明智光秀は室町幕府の官僚組織である奉公衆の筆頭であり、幕府およびとりわけその官僚層の利害主張の代表者である。織田信長は、上洛するも施政に関しては全く室町幕府機構に頼らざるを得ず、明智光秀ら幕府奉公衆とは連立政権的な関係だった」というものである。

  

○「奉公衆」についての十分な知識がなければ、明智光秀という人物を知りえることは不可能です。特に身分制社会の前近代でその身分を見誤るということは、致命的な過誤となるからです。光秀が「室町幕府奉公衆」であったという事実がその存在意義と行動原理を規定することになるのです。(p25)

 「室町幕府奉公衆」とは、将軍に対して御目見え以上の直臣の武家を指す。鎌倉幕府の「 御家人」や、江戸幕府の「旗本」に比べて、聞きなれないものであるが、ほぼ同じものである。

○足利将軍の権力と「奉公衆」(p29)

 室町幕府も「応仁の乱」以降の混乱により、幕府内で将軍を補佐し、諸国の守護大名に対して将軍の命令を伝達した管領(斯波・畠山・細川)の各氏や、京都内外の警備や刑事裁判をつかさどった侍所の頭人(赤松、山名、一色、京極の各氏、四職と呼ぶ)の力が弱まり、十六世紀に入ると、「御供衆」を中心に幕府政治は運営されるようになります。 義満の代に創設されたとされる将軍の 親衛隊「奉公衆」は、五つの部隊によって編制されており、「五ヵ番」と呼ばれていましたが、各番衆の「番頭」(隊長)は「御供衆」が務めました。「御供衆」は、守護家に次ぐ地位とされ、将軍側近として 将軍に守護大名を取り次ぐなど、事実上、幕府の最高幹部であり十人余りで構成されていましたが、中には年少の者などもいて実質的に将軍側近として活躍する者は数名でした。江戸幕府の老中制度の原型と言えるかもしれません。(略)

○「室町幕府奉公衆」の特質(p33)

①「奉公衆」は室町幕府において将軍に近侍し、近習(側近)、申次(取次ぎ)などの諸役を務めた御目見え以上の御家人(将軍直臣)である。(略)

②「奉公衆」は五番に編成され、番頭(御供衆)がこれを統率した。(略)

③各番の長である番頭は、「御供(御伴)衆」として幕政に参与した。

④番衆の所属番は家ごとにほぼ固定されており、同じ番に所属する「相番衆」は、相互に強い意識をもって行動していた。(略)

⑤「奉公衆」の成立期は、なお不明のところもあるが、遅くとも将軍義教(六代)期には成立していた。応仁・文明の乱後も十五世紀末の将軍足利義材(十代義植)の河内出陣(一四九三年)までは、ほぼ健全に機能していた。

⑥室町幕府は鎌倉幕府の御所内番衆の制度を受け継ぎ、開幕の当初から一般の地頭御家人とは区分されていた「当参奉公衆」の制度を持っていたが、将軍権力を発展させるために「奉公衆」の制度が整えられた。

⑦「奉公衆」は幕府直勤の御家人であり、彼らの名簿は、小侍所(将軍と御所の警備を管轄した機関)に常備されていた。(略)

⑧本領(先祖伝来の所有地)以外にも、将軍はその給養のためしばしば御領所を「奉公衆」に給与した。 

⑨「奉公衆」は将軍から洛中の屋敷を貸与されている。

⑩「奉公衆」は政治的にも経済的にも軍事的にも守護大名を牽制して 将軍権力を支える直接の基盤であった。

⑪「奉公衆」の出自は、守護大名一族庶流、足利氏の根本被官(鎌倉時代以来の家臣)、有力国人領主(名門諸豪族)などの名門諸氏である。

⑫「奉公衆」の所領所在地は、三河・尾張・美濃・近江に集中した。畿内・近国に所領を持つものが次に 多く、越中・飛騨・遠江以西の諸国に分布するが、九州・四国における「奉公衆」の所領は極めて少なく、室町将軍の権力基盤が反映されている。

 ⑬上洛して将軍に近侍した「奉公衆」は、京都の 文化に接触して東山文化の重要な担い手となり、中央と地方を結ぶ文化交流の一つの結接点となった。

⑭将軍義晴の代からは「奉公衆」との呼称については、特に「番衆」(将軍の親衛隊)のみを指すというよりは、「御供衆」「外様衆」「御走衆」将軍直臣たち全体を指すようになった。(略)

○織田政権における光秀の役割とは、現代で言うならば、事務方全体をまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ、信長の畿内統治を円滑に担うことにありました。また信長の要請、あるいは命令に応じて畿内の軍事力として室町幕府の幕臣たちを動員することが、織田政権内における光秀の高い地位を規定していたのです。(p27)

 

(3)制度防衛の戦い

 「連立政権」の片方が、他の片方の立場からはとうてい承服できない方針を実行しようとする場合、何が起こるか。それが「中世から近世へ」とも呼ばれるような方針の大変換であった場合、何が起こるか。他の片方による「制度防衛の戦い」が起こらざるを得ない、これが「明智光秀の乱」であると筆者は言う。

 しかし、反乱は失敗した。そのため、ここではじめて(!)室町幕府は滅亡した。幕府滅亡は義昭出奔の時ではないのである。同時に、織田政権も瓦壊した。二つの政権(織田政権と室町幕府政権)が崩壊した次に何が起きたか、筆者は本書においては詳しく述べないが(別著で述べているが)、示唆はしている。

  

○信長が自身の政権構想に従って幕府組織やその規範のみならず、制度そのものを結果として否定するようなことがあるか、あるいは光秀やその傘下の勢力がそれを確信したとするならば、光秀はその傘下から組織的な圧力を受けて、信長との間で挟まれることになります。

 また、もしそういった状況下で信長が大きな隙を見せた場合、光秀がリスクテイクすることは、(略)多分に予期し得た事態ではなかったのか、と考えられることになります。(p31)

○その光秀が幕府を代々支えてきたその基盤とともに組織的に完全に滅んだと言えるのが何時なのか正にその時点こそが室町幕府の減亡であった、と捉えるべきなのではないでしょうか。(p31)

○光秀の反乱は、三鬼氏の見解が暗示するように室町幕府体制の「制度防衛」ではなかったのか、という観点から見た場合、世界史に目を転じて思い当たる事例としては、カエサルを暗殺した(略)ローマの共和制を守るための決起と似ています。(略)明治初期の「西南戦争」などの不平士族の乱もこの類に分類されると思われます。(p32)

(3)光秀の狙いは、三人である。

 この視点を無視した小説がほとんどである。通説では、家康は「変」のとばっちりを受けた被害者のようである。安土での接待を受け、次いで堺に遊ぶ家康は、知らせを受けると驚愕して、「京に上り知恩院にて腹を切る(同寺は徳川家ゆかりの寺)」と狼狽する。家臣の諌めにより、伊賀越えで領国三河に向けて脱出を図る。家康一行は、山中で蜂起した土民に襲われる。後続する穴山梅雪(武田を見限り、織田=徳川に降伏した武田の遺臣)が討たれたものの、一行はからくも伊勢の白子に出て船を雇い帰国を果たす。

 ここには、光秀の狙いは信長、信忠、家康の三人であるという視点が無い。光秀は、反乱発起の時から、三人を同時に討てる千載一遇の好機を捉えていたのである。あくまでも三人同時でなければならなかった。この理由について、筆者は次のように言う。

○もしこの三者の内一人でも取り逃かせば、光秀は必ず破滅することになります。なぜなら、光秀が信忠か家康、あるいは双方を殺害したとすれば、信長が黙ってはいないことは当然です。光秀が信長と家康を殺害しても、嫡子信忠が生き残ることができたならば、織田家臣団は信忠の下に結束し、反撃することができます。実際には、光秀は信長と信忠を殺害して、家康とその重臣たちを取り逃がしました。これはいかなる事情があろうと、取り返しのつかない戦略上の過誤となります。(p13)

 なぜ「家康も」であるかは、さらに本書の先を読み、筆者の歴史観を聞かねばならない。ここでは、徳川家康に代表される三河武士団と室町幕府奉公衆とは領地的対立が背景にあること、その徳川家康が織田=徳川連合政権の新たな展開を前にして、「征夷大将軍」の拝命が現実の予定に上り、室町幕府再興を目指す奉公衆としては決して看過できない状況に直面していたこと、などを念頭に置くべきである。

 もう一つほとんどの小説が陥っている誤った視点として、通説では徳川家康を「弱い」立場にしていることがある。本書の視点では、「家康は強大」と見なしているが、理由の詳しくは本書の先を読み、筆者の歴史観を聞かねばならない。ここでは、徳川家康は、三河武士団を率いて、三河という室町幕府奉公衆の領地を浸食する新興かつ最強の武士団であること、早くから源氏の嫡流(足利に対抗する新田氏)を自称し、伝統的に関東を統べる(織田の方は西を統べる)立場を望み「征夷大将軍」の拝命を狙っていること(織田は平氏を自称しているので、右大臣か太政大臣になる)など着々と布石をしている。また「信康切腹事件(嫡男信康が武田に内通した疑いで切腹、同時に妻である信長の娘と離縁)」、「三方ヶ原戦の敗北(織田の援軍の戦場での怠慢、先年の姉川合戦では援軍に出た徳川軍の奮闘との大いなる違い)」などは必ずしも徳川弱体説に一辺倒の証拠とならないこと、などを念頭に置くべきである。

(4)一人を取り逃がしたことで、企ては失敗

 光秀の作戦計画に遺漏は無かったはずである。何故なら、光秀はその前に二度も同種の事件を体験しているからであり、今回はさらに十分な兵力と情報網を握っているからである。しかし、取り逃がした原因は、意外なことにあった。それは、筆者が推論した結果明らかになったことで、本書はおいおい証明していく。

(5)なぜ、細川藤孝は裏切ったのか

 序章においては、まだ光秀を裏切ったものの名「細川藤孝」の名は出て来ない。筆者の視点から見れば、細川藤孝もまた個人的な思惑で動いたのではない。中世から近世に移行する過程で、正親町天皇とその周辺の意志と行動が藤孝の背後にある。

(6)なぜ、「中世から近世への岐路」などと言えるのか

 この興味ある内容は、筆者が本書で説く「明智光秀の乱」の裏の意味である。

7.第一章 室町幕府と「織田・明智体制」

 本章は、題名からして示唆的である。「室町幕府」と「織田・明智体制」と二項が並立している。さらに「織田・明智体制」など聞いたこともない。ここでも、「織田」と「明智」の二項が並立している。

 ここで展開させる世界は、ほとんどの小説が描く通説的世界とは全く異なる。

 小説が描いてきた世界とは以下のようなものが平均的である。

 ある日、岐阜城に明智光秀と名乗る浪人が密命を帯びて訪ねて来る。光秀は、越前朝倉家に寄寓中の足利義昭を助けて上洛することを薦める話をもたらす。信長は「奇貨(きか)居(お)くべし」、と決断する。義昭を迎え入れ、軍勢を催し上洛する。信長は、傀儡として将軍足利義昭を利用して、諸国に号令する。従わない者は、朝倉・浅井のように攻め滅ぼす。しかし、高慢で言うことを聞かない義昭と対立して、ついには京から放逐する。ここで室町幕府は滅亡する。明智光秀、細川藤孝などは、織田の武将として残り、重用される。しかし、宿敵武田も滅んだ頃、用済みとでも言うように、冷酷に当たる信長に、明智光秀は反逆する・・・。

 小説に登場する信長は、中世という時代に居なくても通用する「抽象的な存在」である。信長の心理や行動は、たとえば現代の企業内の権力争いのようでもあり、つまりは時代を無視していることである。

 筆者は、信長を中世(注7-1)という時代の「場所」に置いて見る。中世とは、武力をもち、徴税権と裁判権をもつ独立した共同体が重層的に割拠している時代である。信長は、朝廷、幕府、諸国大名・郷士、寺社、村々など麻のごとく乱れて錯綜する中世世界において、当時の何人も承服できる武力と大義を備えて天下布武を目指していた存在である。

 筆者の信長像は、意のままに何でもできる「魔王」や「暴君」ではない。信長は、桶狭間の戦で快勝して、颯爽と登場する青年武将ではある。しかし、桶狭間の戦(注7-2)は、将軍足利義輝の指導のもとに戦われたもので、信長は将軍の企図どおりの勝利をもたらした武家のエリートである。信長には、幕府およびその周辺から嘱望されて室町幕府再興の期待がかかる。途中、足利義輝が非業の最期を遂げる頓挫があったが、その弟義昭を奉じて上洛する。信長は周辺の期待に応えて室町幕府を再興したのである。

 信長は中世人であり、かつ室町幕府を重んじる「統治権的武将」(注7-3)である。信長が統治権を確立するためには、幕府施政に通暁した者の協力が必要である。その意中の人が明智光秀であった(注7-4)。

 信長の統治形態は、二つの連合からなっていた、すなわち「織田=徳川連合」と「織田=明智連合」(注7-5)である。

 しかし、中世という時代は、この二つの連合に対抗するもう一つの有力な力の脅威を受けていた。正親町天皇の王政復古という動きである(注7-6)。

これらの力のバランスがあるとき破綻した。そのとき中世が崩壊し近世が姿を現わした。その引き金が「明智光秀の乱」である。

                              補遺参照「織田信長の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説」

(注7-1)中世

○当時のあらゆる社会集団は武家に限らず、朝廷(公家)、寺社(宗教)なども荘園領主として経済基盤が類似しているだけでなく、公的な役割を担いつつ私的で個別的な支配層が中核となって構成されていたという点では変わらないと思います。

中世社会では公家が朝廷儀礼、政務、武家が軍事、後に政務を代行し、寺社が宗教と信仰を担い、それぞれが公益を図るとともに、私的で個別的な権力体としての性格をも有しながら社会集団を形成していた現状があります。

これらを「権門」と呼び、相互に補完して国家体制を構築していました。このような考え方は、黒田俊雄大阪大学名誉教授(故人)が提唱した「古代国家が一元的に有していた国家支配の諸機能は、中世においては公家、武家、寺社の各権門によって分掌され、これらの権門が相互補完的に国家を支配した」とする「権門体制論」として知られています。(p100)

※閑話休題

○その他の本からの中世像

◇『戦国仏教』(湯浅治久 中公新書)

・やがて、地域のことは地域で解決するという自立化・分権化の思想が台頭してくる。それは一揆の思想、とでもいえるものである。社会のあらゆる階層が一揆的な結合を創り自立化をめざす。それは百姓の村や商人、そして僧侶の世界にも共通する動きだった。(同書p73)

◇『史論の復権』(与那覇潤×7人 新潮新書)

中世社会においては、中間的なものが豊かに存在していた。社会階層はもとより、文化や宗教や哲学においても。人が社会を形成し維持するには、共通観念(イデオロギー、共同幻想、神話)を共有し、相互に協力するモチベーション(義務、責任、忠誠)が必要である。中世において、小さなコミュニティはその役割を個々に担い、重層的に積み上げて社会(国、藩、村)を形成していた。

 近代社会は、中間的なものが崩壊する過程であった。近代社会は、理性的で自由な個人がアトムとして国民国家に直結する体制であるが、近代社会を営む上でも必要なモラルや自由の観念などは中世に由来しているのだ。

◇『亨徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(峰岸純夫 講談社選書メチエ)

・享徳の乱(1454-1482)は関東における所領関係(支配関係)の構造を激変させた。中世の支配構造は「職の体系」と称される重層的なものである。「職」とは、所領にかかわる権利関係のことで、当時はこの所領支配が重層的になっていた。すなわち、同一の所領について、現地の地頭職、中間の領家職、上部の本家職などが重なって、それぞれの所得分の権利となっていた。「この所領は、わがもの」という主体が三人もいたのである。(略)

・関東御分国内にある京都の権門(公家・武家・寺社)の所領・所職は多く存在したが、それらはこの内乱においてことごとく消滅していったと考えられる。(略)

・戦国時代は、一般には戦国大名の争覇の過程とされているが、その戦国大名の形成過程がいかなるものであったかをも含めて考えなければいけない。戦国大名に成長していった勢力には、その出身別に見ると前代の守護・守護代や国衆といわれる在地勢力があげられる。それらが戦国争乱の過程で上剋下や下剋上といった抗争や地域間の争覇を通じて権力を拡大して、一国ないし半国以上の領域を掌握して戦国大名となっていくのである。

 つまり国衆→戦国大名ではなく、そのあいだにもう一段階あるということである。私はそれを「戦国領主」と名づけた。

・国衆→戦国領主→戦国大名。本書で注目したのは、この国衆の戦国領主化である。

享徳の乱の意義は、特異な守護領国体制である鎌倉府体制が数次にわたる上部権力の分裂・相剋というかたちをとって崩壊し、その支配形態やそのなかに包含される支配階級の内部のもろもろの中世的秩序が消滅したところにある。

・鎌倉・室町時代の武士を中心とした在地支配は、本領などにまとまった地域を領有はするが、その他の各国に点在する散在所領から成り、それを上部権力である幕府・鎌倉府が認定し、所領として支配していた。ところが、享徳の乱と応仁・文明の乱によって上部権力が分裂・抗争する時代になるとこのシステムが破綻し、各自が武力でもって所領を確保し、あるいは周辺の所領を「強入部」といって法の支配によらずに武力で侵攻し確保することがおこなわれるようになった。各地に一郡ほどの範囲で勢力を張った領主により新田領・館林領・佐野領・羽生領といった支配領域たる「領」が生まれる。ここに戦国領主が成立する。(略)「領」の支配者は城郭を構築して防備を固めるようになる。本城を中心に一族・家臣が支城に配置された。本城の近辺には城下町がつくられて流通の拠点となる。こうしてひとつの地域的世界がかたちづくられた。この過程で自己の勢力圏の一円化、家臣団の再編がはかられる。それらが近隣相互に境界の矛盾をはらみつつも養子縁組や婚姻関係を通じて政治的ネットワークを形成し、「一揆的結合」を保つ。

・このような、日本史上の大転換をもたらした転機こそ、「(応仁・文明の乱を含む)亨徳の乱」であると私は考え、この乱を戦国時代の開幕と主張してきたのである。

◇『杉山城の時代』(西股総生、角川選書)

・精緻な山城、特異な中世城郭の謎・「杉山城問題」を解く書

(注7-2)桶狭間の戦

 本書には、ほとんどの小説が描く「奇襲による桶狭間の戦」という話が無い。

 また、本書は、「明智光秀の乱」を論ずるに当たり、その始まりを「桶狭間の戦」から始める。さらに「桶狭間の戦」を論ずるに当たり、その前年(永禄二年)、信長が上洛して将軍足利義輝に会うことから始める・・・そこから説き起こす必要があるからである。

(注7-2-1)通説による「桶狭間の戦」とは以下のような件である

 永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長が今川義元を尾張田楽狭間に奇襲し、敗死させた戦い。駿河・遠江の守護大名今川義元は同三年五月四万(実数は二万五千程度と推測)の兵を率いて上洛の軍を興し、十二日府中(現静岡市)を出発、十七日に三河池鯉鮒に陣し、本軍は三河・尾張の国境に進出。十八日朝比奈泰能らに丸根・鷲津への攻撃を命じ、徳川家康に大高城への兵糧搬入を命じ、自分は沓掛城に入り、翌十九日本隊を率いて桶狭間方面に進み、田楽狭間に休止した。

 一方信長は、十八日清州城で軍議を開く。議論百出のなか、長老衆からは籠城すべしとの説が多い。夜も更けて、信長は諸将に一旦待機を命ずる。「日頃の智慧の泉も枯れ果てたか」と皆々はぶつぶつ言いながら退出。夜明け方、丸根 ・鷲津の砦に敵が攻めかけたとの報に接すると、信長は出撃を決め、敦盛(人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり)を一指し舞うと、わずかな手兵を率いて出陣。熱田宮で、軍勢の参集を待つ。この時、勝利の神託があったとか。さらに前進する途中、丸根 ・鷲津の砦の方面に煙がたなびく、「はや、我らより先に散れるか、ものども続け」と叫ぶ。善照寺の砦で約二千の兵を集結させ、相原方面に進出した。ここで義元の田楽狭間休止の情報を得て、ただちに襲撃を決し、折からの驟雨を背にして今川軍に察知されることなく、一挙に今川軍の本営を襲った。義元は信長の近臣服部小兵太に槍をつけられ、「下郎、推参なり」と名刀左文字の太刀で小兵太の膝を斬る、ついで毛利新介に打ちかけられ、切りふせられて首を取られる、今川軍は兵三千を失って敗走した。信長は追撃をやめ、夕刻ごろには義元の首級をかかげて凱旋した。

 この戦いは典型的な奇襲戦であり、信長が的確に情報を把握し、機敏で果敢な攻撃を決行したことに勝因があったが、偶然の作用するところも多かった。一方の今川軍には、かつての太原崇蒲孚(雪斎)に代わる智将がおらず、ただ大軍を頼む油断があったことである。

通説の蔓延

「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にしては見込み立たず。結局、桶狭間と鵯越と川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に追い込まれる次第に御座候」(山本五十六)

(注7-2-2)2017年のNHK大河ドラマは桶狭間の戦の実相を描けたか?

 この戦いの実相は、信長の辛勝どころか、義元本陣が殲滅されていると見なしてもよいものである。

昨年のNHK大河ドラマは「井伊直虎」(遠州井伊谷の女城主)であるが、遠州の小領主である井伊直盛(直虎の父)は義元本陣近くを守っていたが、井伊直盛および井伊家重臣16人が戦死している。各人に郎党5~6人つき従っているのが普通だから、百人近い戦死者が出ていることになる。いまも、井伊谷の龍潭寺にその墓が林立して残っている。今川の被官である国人領主にして斯くの如くであるから、義元本陣の惨状はいかばかりか。

 信長は、幕府およびその周辺の応援を得ていた。従って、義元本陣に対して、全軍(例えば2000~3000人)を突入させることができたのであろう。信長記(太田牛一)はこの最終局面を述べているのであり、戦の実相は小勢による奇襲どころか、今川軍は圧倒的な数の織田軍に包囲殲滅されたのである。

 

(注7-2-3)本書が述べる桶狭間の戦。本書では「史実が、ばらばらでなく、有機的に意味を持って繋がる」

○永禄三年(一五六〇)年五月十九日の「桶狭間の戦い」は、有光友学横浜国立大学名誉教授(故人)の研究によって当初の予定よりも一年遅れていることが判明しました。これは永禄二年四月に将軍足利義輝の命で長尾景虎(上杉謙信)が越後の精鋭五千とともに上洛し、春から初冬にかけて半年近く在京したことから、今川義元は計画を延期せざるを得なくなったのです。この事実経緯によって義元の目的が上洛であることが確認されました。

 一方、この年の二月に誰よりも先んじて上洛した人物こそが信長です。信長のこの外交戦略によって一年近く義元の西上計画を遅らせることに成功し、実際は奇襲ではなく、その期間に迎撃体制を準備万端に整えて今川軍に大勝し、義元の上洛を阻止したのでした。詳しくは『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』(里文出版、2013年)を参照ください。(p38)

(注7-3)中世武家政権の権力の二重性。君主権と統治権。

○「統治権的武将」とは

君主権(主従制的支配権)と統治権(統治権的支配権)が、二分される「二元性論」は源頼朝が武家政権を創始した鎌倉幕府に始まるものです。義昭出奔以前の織田政権はそれを継承したものであり、政治形態としては近世ではなく、中世であった、と見なされます。この宿命ともいえる「二元性」をどのように幕藩体制が克服することができたのか、という命題が、武家政治史の最大のテーマとなります。

 義昭と信長の対立の基本的な構図の主要因は、義昭が兄義輝と比べて将軍としての自覚や資質に欠け、小心で専横な人物であったということは確かなことと思われます。しかし、義昭と信長双方の個性の問題もさることながら、それ以上に室町幕府創設期からすでに始まる、将軍のもつ君主権と天下人の統治権の軋轢を継承するものでもあったのです。(p51)

 

○一体天下人とは、どのような人物を指すのでしょうか。

それは京都における単なる軍事的な最高実力者である、というよりは、それに裏づけられた政務・軍事全般における統治権者のことです。歴史学の用語では、「統治権的支配権者」と言います。「統治権的支配権者」として挙げられる具体的人物としては、鎌倉の北条氏、足利尊氏の弟で副将軍と呼ばれた足利直義(ただよし)、細川頼之・同勝元、同政元などの管領、三好長慶、そして織田信長が挙げられます。

 いずれもその前後の関係において将軍とは激しく対立していますが、将軍によってその権力を委任されています。このような事情から将軍と天下人の間には、厳格な君臣関係が存在していることも忘れてはならないと思います。(略)

武士とは一つの階級であることから、いわばその棟梁である将軍は、武家党の党首とも言えます。将軍のもつこの君主権を「主従制的支配権」と呼んでいます。将軍は武家階級の棟梁として軍勢の動員権を有し、武家全体の利益を代表していますが、一方、天下人=「統治権的支配権者」は、将軍からその権限を委託されて広く政務全般を担うことになります。天下人は、寺社や朝廷をも含む荘園領主、天下万民の利害を調整するため一定の強制力をもって畿内における最大の軍事力を有することが求められました。

 信長は本人も言っているようにその実力と将軍家への貢献によって将軍から天下人を負託された存在であって、信長自身も室町幕府の構成員であった、ということになります。

 この権力の二重形態を「二元性論」と呼んでいますが、これは佐藤進一中央大学名誉教授が、足利幕府創成期の足利尊氏とその弟直義の二頭政治を説明した際に用いた大変有名な学説です。

 ところが、この「二元性論」は織田政権を説明する際には、これまで適用されていませんでした。(p43-44)

○義昭との軍事衝突が始まり、洛外に続いて上京まで焼きはらった信長は、元亀四年(一五七三)四月六日付の家康宛ての書状において次のように述べています。

「今度は公儀(将軍)不慮の様子、事情は、昔の事を蒸し返しているようだが、身に覚えがないことだ。君臣の間柄であるので、これまでの忠節も無になってしまうと思って、いろいろと道理を述べたが、御承諾がないようだ」。

 信長は盟友の家康にさえこのような弁明を述べていたのであり、たとえそれが名目であつたとしても、君主権(主従制的支配権)の問題は厳然として存在していたことになります。この君臣関係の建前は、信長ほどの軍事力や政治力を有していたとしても、その行く手に大きく立ちはだかつていたのです。(p54)

(注7-4)意中の人が明智光秀

 現実問題として、上洛した信長は京都に何の基盤もっておらず、幕府の行政能力を必要としていた。信長は、二百数十年続いている幕府の行政能力に通じていてかつ幕府諸将の武力をも統合できる者を上洛以前から決めていた。

○義輝の支援によって「桶狭間の戦い」に勝つことができた信長は、永禄七年(一五六四)十二月に、義輝に対して上洛を約束します。ところが、これを恐れた三好氏と松永氏によって永禄八年五月十九日に義輝は殺害され、信長は上洛の大義名分を失うことになりました。彼らが将軍の殺害という強硬手段を行使した事実からも、かなり切迫した事情があったと考えられることから、信長の上洛計画は永禄八年中であったことが類推されます。

 信長は義輝の遺臣たちの要請を受けて、義輝の弟で興福寺一乗院の門跡であった覚慶(足利義秋→義昭)を奉じて上洛し、室町幕府を再興しようとしました。永禄十一年(一五六八)九月二十六日に上洛を果たした義昭は、十五代将軍となり、信長は幕府を再興したことになります。

 京都を中心とする畿内は当時最先進地域であり、同時に数多の寺社や本所とよばれる公家など荘園領主の勢力が根強い伝統的な地域でした。それまで京都に何の基盤もたない信長が、すでに二世紀半にわたる伝統的・官僚的支配によって培われた幕府の行政能力を必要とすることは、現実的に考えるならば、至極当然のことと言えます。そこで信長は室町幕府の行政並びに司法機構を実際に担っていた「奉公衆」や「奉行衆」などの幕臣たちに影響力を行使し、これを取りまとめることができる人材をどうしても必要としていたのです。

 さらに実際的に言えば、信長が義昭を奉じて上洛を目指す過程において、すでに意中の人物がいてその人物は即戦力の人材であったことになります。それが明智光秀であったということがわかるのは信長が上洛してからのことになります。

 史上に登場して以来、光秀の目覚ましい台頭は、信長による一方的な引き立てによるものだけではありません。幕府の周辺勢力を動員して兵力にも転用しうる、即戦力として、あるいは潜在的にその能力が十分にあったからこそ光秀は信長から格別な地位を与えられていた、と考えるべきなのです。(p39-40)

(注7-5)「織田=明智連合」

○信長は抵抗勢力ではない権門に対しては既得権益をほとんど認めています。実際は、そういった権門の方が多数を占めていたからこそ、織田政権は大きな勢力となりえたのです。信長はこういった権門の既得権益を守ることで、それらに対して権利侵害を重ねた義昭やその周辺とも激しく対立することになりました。

 最終的に将軍が出奔したことで、統治権は織田政権に一元化したことになり、そういった軋轢は激減します。一方で天下人織田信長を支えた最大の権門とは明智光秀を中心とする義昭を放逐した幕府機構であった言えます。将軍出奔後においても織田政権が円滑に機能した理由は、明智光秀の手腕によるところが大きかったという見方ができますが、それは取りも直さず光秀が管轄する幕府の機構そのものは温存していたことになります。

 光秀が織田政権内で義昭出奔前後、さらにその地位を強固にしたことは、「奉公衆・奉行衆」、あるいは畿内周辺の国侍など幕府の権力基盤のかなりの部分を信長方に取りまとめた功績によるものです。

 光秀や藤孝ら大部分の「奉公衆」「奉行衆」などの幕府周辺勢力が義昭に帯同しなかった理由は、単に信長への鞍替えといった保身だけでなく、幕府の制度・組織を防衛するという目的もあったと考えなくてはなりません。彼らは幕府政治にとって障害となる将軍の出奔を容認するとともに、大局的には、足利幕府体制の大前提である代々足利氏が世襲してきた将軍職を守るために信長に協力したという側面も多分にあったと見なくてはならないからです。(p101)

○信長の畿内支配の実態は、「織田・明智体制」と言っても過言ではないと思います。信長が明智光秀に与えた職責と職権は、室町幕府の「政所執事」に近いと言えます。もちろん信長にその任命権はなく、その実質のみを光秀に付託したことになります。それは信長の地位も同じであり、名目ではなく副将軍の実質が付与されたものです。(p80)

(注7-5-1)光秀とは何者か? 「明智光秀の乱」は「制度防衛」である(再) 

 われわれは結果を知っている。その故、われわれは結果の視点から歴史を見がちではあるが、歴史の現地時間においては結果が見えておらず、事態は進行形でありまた事と事の間には「相当の時間が必要」なのである。

 

○史料と職制の研究に従えば、明智光秀は「御部屋衆」と比定することができますが、例外として義輝の代に光秀と同等の地位にいた「申次衆」がいました、進士美作守晴舎(はるいえ)という人物です。明智光秀が「御部屋衆」ではなく、この地位を継承していたとするならば、進士氏との関連が考えられます。なお明智氏は「四番衆」であり、「御部屋衆」「申次衆」など幕府政治の中枢に位置したことはありませんでした。この問題が次章のテーマとなります。いずれにしてもこれらの書状により光秀の幕府内での地位は、義昭や信長による抜櫂ではなく、復権であったとの心証を強くもたらすものです。(p80)

○「明智光秀の乱」の主因は、明白に足利幕府体制の「制度防衛」であったということになります。それは織田信長が明確に室町幕府に代わる新しい体制へと踏み出した時期と符合しています。こうして洛中洛外に止まらず畿内全体が一夜にして信長にとって敵地と化したことになります。このような宿命的な性格は、三鬼氏や安国寺安国寺恵瓊が指摘したように本来その政権構造に内在されていたものと考えなくてはならないことになります。

 しかしながら「織田・明智体制」は信長と光秀の個人的な関係の親密さによって、織田政権の崩壊を予言した安国寺恵瓊の予測を数年超えて円滑に運営されました。その結果、かえって室町幕府体制をそのまま温存させてしまったことを意味します。結局、信長と光秀は同床異夢であったことになります。(p125)

○信長がその夢から覚めたのは天正十年六月二日の夜明け前であり、光秀はもちろんその前ということになります。

 明らかにそれは信長の不覚によるものですが、一方で土地の権利関係などの複雑な利害関係をもつ永続的課題について蓄積のある室町幕府の伝統的支配および官僚的支配に比べ、尾張・美濃を中心とした織田家臣団単独の力では安定感のある合法的支配を上洛から十四年、義昭の出奔から十年ほどの期間では構築できなかったことを如実に物語るものです。

 言わば、現実の織田政権とは、自身の織田ブロック、徳川ブロック、明智ブロック、という三つの大きなブロックや中小のブロックの上に成立している情況にあって、印象とは違いその権力構造は安定したピラミッド型にはなっていませんでした。権力構造をピラミッド型に成形するには、歴代の武家政権の成立過程から考えても、相当の時間が必要であったと考えられるのです。(p125)

(注7-6)正親町天皇の王政復古

○義昭が出奔したことで、信長は対朝廷政策の前面に出なくてはならなくなります。信長の最初の大きな朝廷政策は、その年の十二月に表面化しましたがそれは正親町帝に対しておこなった執拗な「譲位」(退位を迫る)要求です。

 信長が義昭だけでなく、義輝の怠慢を指摘した朝廷政策の具体的内容とは、経済的な支援だけでなく、武家の統治権に介入し、「王政復古」を密かに目論んでいた正親町帝の譲位要求が含まれていたことは自明です。それでも信長と正親町帝との間に対立関係がなかったというのは、政治史においては、便宜的であるとともに甘い見方であると言えます。(p50)

 

8.第二章 明智光秀とは誰なのか

 筆者は、データを駆使して推論をすすめ、明智光秀を特定する。それは今まで誰も言わなかった結論である。筆者が言うように、もし新たな有力なデータが発見され、この結論が裏付けられれば、本書の論説全体がさらに補強されることになり、日本史が塗り替えられるであろう。

 筆者のアプローチは、ボトムからデータを積み上げるのでなく、トップダウンで探す方法である。すなわち、明智光秀はその前半生は如何なる、あるいは何処に居た人物、でなければならないか、という問いから始める。

 筆者は、明智光秀の素性をつきとめたばかりでなく、例によって莫大な副産物も提供している。即ち、将軍足利義輝のすぐれた危機管理、側室小侍従と息子の消息、義輝の遺児は明智光慶でありかつ尾池義辰であること、細川家の役割、等々である。

○(著者の結論)

「明智・進士説」には、次の三つの重要な骨子があります。

Ⅰ明智光秀は奉公衆進士源十郎藤延(ふじのぶ)であり、父は進士美作守晴舎(はるいえ)である。

Ⅱ藤延の妹で義輝の側室小侍従は明智光秀の妹ツマキである。

Ⅲ明智光慶は義輝の遺児尾池義辰である。(p244)

 

○明智光秀の行動原理を理解するうえで、もっとも問題となるのは、幕府の重職である「部屋衆」として史上に登場する以前の経歴です。明智光秀とは、信長の期待に十二分に答える水準で、畿内の幕府機構を統括し、行政・軍事にとどまらず、武家の儀礼・故実の第一人者として「馬揃え」、当初は、安土城での家康の饗応を任せられた人物です。このような能力は資質だけでは到底説明できないことから、もともと明智光秀とは、「明智光秀となりうるような経歴を携えていた人物」でなければならないことになります。(p127)

 

 筆者の明智光秀像は、しだいにある哀愁を帯びてくる。それも道理、著者は「明智光秀の乱」は、「時代に逆進した忠臣蔵」でもあったと言うのである。著者は個人的な心情に踏み込まずに論理を進めているが、なお沁み出る様に現れて来るのは、光秀の前将軍足利義輝に忠義な侍の心情である。

 

○この屏風絵図(「洛中洛外図屏風絵図」)に描かれた世界は、信長ではなく謙信と光秀が共有する価値観で支配されています。光秀や謙信が、幕府の中興を目ざして粉骨砕身の努力を払った実績は動きがたいものです。それはかつて信長も同じでした。

 ところが織田信長は、義昭の出奔によって既存の社会秩序の矛盾に直面することになり、阿鼻叫喚の激しい戦いの連続によって、中世社会から近世社会への移行に突き進むことになる次代の権力者となりました。それは時代の先端で変質していったと思われます。

 こうして何処かで取り残された光秀は、信長の天下を物理的に中断させることで、十七年前には確かに存在していた「上杉本洛中洛外図屏風絵図」の世界が蘇ると錯覚したとも言えます。この価値観の相違が、両者の破局という形となってやがて現れる日が来ます。それが天正十年六月二日ということになるのです。(p242)

○当然の事ながら織田政権下においても、幕府再興の要求は光秀周辺の「奉公衆」を中心に強烈にあつたことになります。光秀が有能であったことはもちろんですが、その幕府内における不思議な求心力は義輝の遺言執行人としてその遺児と母親を叔父として保護することによってもたらされていたものであった、とも言えるのではないでしょうか。

 光秀の真の主君は信長ではなく、あくまで亡君足利義輝であったことになります。そういう意味で「明智光秀の乱」は、「時代に逆進した忠臣蔵」でもあったと言えます。細川藩における尾池義辰の存在はその余韻を今に至るまで残しています。(p252)

 そこで義輝の永禄八年五月十九日の辞世の句と天正九年十一月十九日の光慶の追加何木発句、そして「輝雲道琇禅定門」という光秀の戒名をもう一度思い起こしながら、決起に至るその心情を「愛宕百韻」の連歌会の中で光秀が詠んだいくつかの句を通して、もう一度耳を澄まして尋ねてみたいと思います。

【永禄八年五月十九日足利義輝辞世句】

五月雨は露か涙かほととぎす 我が名をあげよ雲の上まで 足利義輝

【天正九年十一月十九日  追加何木】

春を待つ行く末久し梅の花 明智光慶

【天正十年五月二十八日愛宕百韻】

① 時は今天が下しる五月哉     明智光秀 発句

・時は土岐ではなく、それはあくまで事後の解釈です。時は鬨の声で戦いの合図、天から落ち  る雨は義輝の涙。あるいは光秀の悔し涙。五月は義輝の命日である五月十九日。

② 深く尋ぬる山ほとどぎす     明智光秀

・義輝の遺命を思い起こし、その真意を熟慮して決心した。

③ 葛の葉のみだるる露や玉ならん  明智光秀

・葛の葉は、うらみ葛の葉の意で信長に幕府再興の約束を反故にされ、かくなる上は乱れる  露が玉となって決起する。

「秋風の吹き裏かえす葛の葉のうらみてもなおうらめしきかな」(古今集)

④ おもひに永き夜は明石がた    明智光秀

・今回の反乱については、悩みに悩んで朝を迎えた。あるいは考え抜いた。

⑤ 秋の色を花の春まで移しきて   明智光秀

・信長の時代以前に時空を戻して足利の世に戻す。

⑥ 旅なるを今日は明日はの神もしれ 明智光秀

・旅の道中を守る神=あすはの神に、ご照覧ください、と乱の成功を祈願する。

⑦ たちさわぎては鴫(しぎ)の羽がき    明智光秀

・武者どもがいきり立って参陣し、軍勢の甲冑がすれる音で大音響となる。

⑧ しづまらば更けて今度の契りにて 明智光秀

・この乱が治まれば、遅くはなったが、義輝との約束が守れる。

⑨ 国々はなおのどかなるころ    明智光慶 挙句

・天下は何事もなかったように「上杉本洛中洛外図屏風」の世界が広がる足利の世に復すことになる。(p252-)

※閑話休題・・・戦国忠臣蔵。 

 もし、練達の小説家が、この辺りを描けば中世の秋風にそよぐ桔梗の花のように、美しくも哀切極まりないもう一つの戦国忠臣蔵を書くのであろう。その最初のシーンは、永禄八年五月十九日深夜、東山三十六峰静かに眠る丑三つ時、将軍御所をひたひたと囲む三好・松永の軍勢。察知した将軍義輝は優れた危機管理を働かせて、その場で出来る全ての事を気配も示さずとり行う。若き進士源十郎藤延(後の明智光秀)を呼び寄せ、小侍従と幼子を伴い、直ちに脱出せよと命ずる。そして「汝、足利幕府を再興せよ」と密命する。義輝自らは、足利家重代の名刀を数十振とりだすと、抜けば玉散る氷の刃、御座所に立つ自分の周りの畳に円陣を描くように突き刺す。それからの剣豪義輝は、乱入する軍勢を、名刀を次から次と使い捨てにして、斬りまくるのである・・・。

 脱出に成功した進士源十郎藤延は、はるか京の都の方角に燃える将軍御所を望見し、将軍遺児をかき抱き「必ず幕府再興を果たします」と涙を振い誓うのである・・・。

9.第三章 信長の政権構想と「織田・明智体制」の崩壊

 愈々、終章である。時代は中世(注9-1)である。登場人物である織田信長、明智光秀(注9-2)、足利義輝、足利義昭、正親町天皇、徳川家康、等々はみな中世人である。中世の論理で考え行動している。われわれが現代において一刻先が見えずに生きているように、彼らもさまざまに長期視野を描いていたにせよ、一刻先が分からず、直面する相手や状況の変化に応じて、刻々と意思決定して行動していたのである。

 複雑にかつ相互に反応する連関の中で、出来事はうねりつつ絡まり、事態がどのように転がるのか見通せるものではなかったのだ。論理整合的な「歴史の流れ」は、後世の産物である。

 そもそも足利義昭の出奔(注9-3)にしても、信長にとっても不本意なものであった。本書では出来事の原因を個人的な帰責としない推論をしているが、足利義昭の出奔の原因については幕府体制の制度疲労とともに、幾分義昭自身の性癖や能力不足も上げられている。出奔後も、中世人たる信長は「君主権(注9-4)」を尊重して、義昭の将軍職を剥奪し得なかった。出奔後は、京都における幕府の行政機構を明智光秀の力を得て維持している。室町幕府の機構は崩壊せずに、危うい安定をしつつ保持された。ここに「織田・明智体制(注9-5)」なるものが一時期において成立した。しかしそれは互いの幻想に根ざした同床異夢の楼閣でもあった。

 「統治権(注9-4)」のみとなった信長は、ある意味正統性を失い周辺からの攻撃を激しく受けるようになった。信長は、不本意にも悪鬼羅刹となって四方の敵と戦うことになるが、結果として領国を増やした。武田を滅ぼした信長は、有頂天にもなり物見遊山の如く甲斐の国から帰国している(注9-5)。残る北条を制すれば、関東一円が勢力圏となる。そこで同盟者・徳川家康の処遇を含め、日本国を統治する新たな信長の政権構想(注9-6)が芽生えて来る。

 あくまでも中世人である信長が描く構想は、中世の二元性(注9-4)に根ざしたものである。しかし、全く同じということはありえず、空前の圧倒的武力による「統治的支配」は、旧来の矛盾を一掃した形体を目指した。しかし、必ず反作用がある。矛盾を解消される側からの反応の一つとして、明智光秀の乱があった。乱は、幕府奉公衆及びなお中世の意識の中に居る者たちの制度防衛(注9-6)という性格をもっていた。

 乱は、なぜ失敗したのか。プレイヤーは他にも多く居たからである。光秀が最も近い同士と見なした者の一人が、ある別の思惑を抱いた。また、正親町天皇(注9-7)とその周辺は、天皇親政という南北朝時代あるいは律令時代の国家統治を考えていた。

 乱の失敗は二つの政権(織田と明智)が同時に倒れることとなる。さらに乱の目的の一つは「徳川家康(注9-8)」討ちであり、乱の失敗はまさに「家康」の逃亡でもあった。当時家康が居た困難な状況から、直ちに上洛戦に赴くことは出来なかったため、歴史の踊り場的な豊臣政権(注9-9)が成立する。それは、正親町天皇という至上と秀吉という最下層の者が結託した、異形な政治体制であった。中世の二元性を一挙に葬り去るような、しかし構造的に無理な政体であった。この政権が、日本史にも稀な「外征」を行い、また一人の死とともに雲散霧消するのも故無しとしない。

 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」(秀吉)

豊臣秀吉政権が倒れ、日本が徳川幕藩体制(注9-10)という形で近世を向かえるには、あと幾ばくかの時が必要であった。時代は、豊臣政権という間奏を経て、中世を構造的に克服する徳川幕藩体制を向かえる。ここに近世が開けたのである。 

※閑話休題。 江戸幕府はなぜ実現したのか。家康の老獪? 狸? そんな個人的な理由ではない。生涯で7人の主を変えたという藤堂高虎は、豊臣秀長、秀吉に多大の恩顧を受けながらも、両者の死後は独自の動きを見せる。高虎は、伊予・今治城主である。その現実を見据える高虎は、中央集権的な豊臣の遺制を続ける石田三成を支持せず、家康に味方することからブレなかった。全国の人士は、「武家が統治する平和な時代」を、かつ「地域が半ば独立した分権的な封建制」を望んでいたのである。

(注9-1)中世

著者は、「中世的課題と織田信長」の節で、「中世」について概括するとともに、当時の社会的混乱の解決を目指す織田信長の「歴史的使命」を述べている。

○ところで信長が誕生して育った世界であり、直面した現実である中世社会とはどのようなものであったのかという問いに対して石井進東京大学名誉教授(故人)は、五つの特色を端的に示しています。

 その第一として挙げたことは、「京都の朝廷、鎌倉・室町幕府、大きな寺院や神社、各地の地頭から守護大名・戦国大名まで、さまざまな権力主体が支配権を行使し、独自の裁判を行っていた。したがって衝突が絶えず、しばしば争乱がもちあがったのは大きな特色である」として権力が分立していた実態です。

 そして石井氏は「軍事専門家層の優越」として武家階級の優位性をあげていますが、それは、あくまで相対的なものでした。現実に武士が暴力を独占していたわけではなく、比叡山、本願寺、根来寺、百姓も加わり領主を持たない合議制の「惣国一揆」、堺の町衆などもこれに対抗する武力を有していました。

 このような過剰な分権による社会的混乱の克服が武士階級に求められていたことになります。それが戦乱の続く時代からの要請であり、これに初めて明確かつ本質的な問題意識を持って答えた人物が織田信長であったのです。それは「統治権的支配権」という自身の権力から生じたものでしたが、卓越した問題認識として称賛に値するものです。(p293)

※閑話休題。 映画「七人の侍」では、百姓の村は武装していない。これは、中世の村ではなく、近世以降の村である。映画の中の台詞から、時代は天正十四~五年(明智光秀の乱から4~5年後)である。小牧・長久手の戦が終わり、秀吉が関白・太政大臣になる頃・・・。戦国の勝ち残りレースが終わりかけている。この頃にしかるべき仕官の途にはぐれた牢人には、恩賞や出世の糸口になる合戦そのものが少ない。

※侍がどうか不明の男(三船敏郎)は武家の系図をひけらかし、一点を指さす「これが俺だ!」。勘兵衛(志村喬)は系図を見て、笑いだす。「菊千代か? 天正二年二月十七日生まれ・・・当年とって十三歳か、お主はとても十三歳には見えぬがの・・・」。

 しかし、映画のラストシーンは、まさに中世末期の村である。刀狩り・兵農分離を経て、村は幕藩体制に組み込まれ、武装を解き農業に専任していく。

※勘兵衛「今度の戦もまた負け戦だったな」

七郎次「えっ?」

勘兵衛「勝ったのはあの百姓達だ」

 戦いが終わって、笛や太鼓の囃しの下、田植えに勤しむ百姓達。生き残った三人の侍(勘兵衛、七郎次、勝四郎)は、呆然とこれを見つつ、村を立ち去る・・・。

 

『鉄砲とその時代』(三鬼清一郎 教育社歴史新書)

 中世の百姓は、法的には武装を禁じられていなかった。先進地域にみられる惣は、戦国大名権力の介入を許さないほどの実力を備えており、惣掟に違反した小百姓に対しては、死刑をも含んだ厳罰をもって臨んでいる。そして、荘園領主・地頭・代官に対しては、年貢減免や領主の非法を訴え、年貢を地下請にするなど自主管理の体制を認めさせた。惣の構成員には侍衆も含まれており、その内部からは、つねに領主階級を生み出すような条件があつた。

 織豊政権は、惣がもつ種々の権利を奪い去り、年貢納入の基準となるような近世的な村に組み変えようとした。(略)このような近世村落においては、かつて惣を構成していた惣衆は、大名などの家臣となって権力の末端に連なり、村自身が武装することはなくなるのである。

 近世では、百姓や町人が武装することは許されなかった。これを象徴するものは、天正十六年(1588)に秀吉が出した刀狩令である。刀・脇差・弓・鑓・鉄砲などあらゆる武具が没収され、百姓は農耕に専心すべきものとなっていく。この刀狩令は、京都東山に建立する大仏殿の釘、かすがいに利用するから、武具を供出すれば、百姓は来世までも仏の加護をうけることができると宣伝したが、実際は百姓一揆を防ぐための口実にすぎないことは、当時の人によって見抜かれていたのである。

注9-2)明智光秀

 「明智光秀の乱」とその類似の事件が、僅か17年の間に3回起きていた。いずれも、明智光秀は当事者として事に当たっている。一回目には、将軍足利義輝の側近として戦い、死地をのがれた光秀自身は、責を負って出家するが、同時に重大な預かりものと使命を担うこととなる。二回目は、襲撃者の刃から将軍・足利義昭を守る武勲を立てる。一回目の失点のみそぎを果たし、歴史上に颯爽と登場する。その後の表舞台での活躍は人口に膾炙している。三回目は、信長襲撃であり言わずと知れた結末に終わるが、自らの死とともに二つの政体は同時に倒れ、図らずも中世の幕を引き近世の入り口を開けたのである。

 三回とも酷似した事件であり、全てを知悉していた光秀が、三回目を企図するに当たり失敗はあり得ないことであった。しかし、失敗したのはある理由による・・・・・。

 ところで、なぜこのように将軍の身辺に油断が生ずるのか。将軍は、「天下静謐」を実現する責を有する。この場合「天下」とは当時の慣例に従い「京の周辺地域」のことである。「天下静謐」なのだから、自らも軽装で僅かの供を伴い京都市内を往き来する姿を見せる必要がある。つまり、「包む者は、また包まれる者」であるという弁証法的論理がある。

 

○一度目は永禄八年(1565)五月十九日の三好氏と松永氏の軍勢が今出川将軍御所に十三代将軍足利義輝を襲撃した「永禄八年五月政変」です。

 二度目は永禄十二年(1569)一月五日の三好三人衆による本国寺への十五代将軍足利義昭襲撃事件つまり「本国寺合戦」です。

 三度目は、これまで「本能寺の変」(天正十年(1582)六月)と呼ばれてきた明智光秀をはじめとする旧幕府衆を中心とした前右大臣兼右大将信長及び三位中将信忠襲撃事件です。

 この「永禄八年五月政変」から「明智光秀の乱」までの十七年間が天下人として信長の事業を指しています。光秀の実在が確認されるのは永禄十一年(1568)十一月から天正十年六月(1582)までなので、より限定して考えるならば両者の顕在化した盟友関係は十四年にも満たない期間に過ぎなかったことになります。

 これは信長が畿内支配を実現して天下人であった期間と重なります。このことからも信長の天下支配を指す織田政権とは、「織田・明智体制」のことであったと考えることができます。光秀にとっても確かにその運命を激変させた十七年間でしたが、その立場から考えれば足利尊氏が幕府を成立させて以来、二百五十年に近い歳月を経てそのカルチャーと制度を守るための責任が光秀に重くのしかかっていたことになります。

 そのあくなき幕府再興への意志に反して、足利幕府の解体が急速に進行していく中、光秀はある意味時代に取り残されて自身の運命も激しく流転していくのであり、そこに明智光秀と呼ばれた人物の複雑性があると言えます。(p257-258)

○桑田氏、あるいは三鬼氏の先行研究が学界で主流とはならなかった最大の理由は、明智光秀が「室町幕府奉公衆」であったという、大前提が認識されていなかったことにつきます。(p363)

○光秀らの真の主は信長とか義昭とか個人の次元での問題ではなく足利将軍と足利幕府なのであり、その本性はやはり「奉公衆」であったということを事件は証明したとも言えます。時期的には義輝の十七年回忌も済んだばかりです。光秀を含む生まれながらに「室町幕府奉公衆」として代々二百年以上も世襲を繰り返し、将軍直臣として厳しく育てあげられた武士たちの世界観・価値観が変わるだけの年月の経過があったとは考えられません。(p364)

※閑話休題。後世の人は、歴史を過去として見るため「瞬間的」あるいは「断絶的」変化を考えるが、<今>を生きる当事者にとっては、変化には「相当の時間」が必要である。

 早い話が、今日、企業が時代に適応すべく新しい業態に移行するにも「相当の時間」がかかるものである。そして、移行が成功した後は、「当然のことを瞬間的に成した」ように想起されるものである。特に成功譚として語られる場合は、「事前に企図して行った」ように回想される。

(注9-3)足利義昭の出奔

 通説は、信長が義昭を追い出した・光秀らは信長についた・ここで室町幕府は滅んだ、であるが以下の記述は全く別の様相をしている。

○元亀三年(1572)九月に出された「異見十七カ条」における義昭批判の力点は、幕府政治そのものではなく、あくまで義昭個人の政治姿勢・資質に置かれています。(略)結局、信長は、これらの成文によって将軍義昭を束縛できなかったこと示しています。それは義昭の政治姿勢・資質を超越した、武家の棟梁として室町殿のもつ君主権(主従制的支配権)の威力に裏打ちされたものでした。確かに「異見十七カ条」は信長らしい率直すぎる表現ではあるにしても、義昭の出奔はこの時点では信長の本意ではありません。なぜなら池享一橋大学教授が述べたように「信長の政治的正当性は、将軍である義昭を補佐する立場によって確保されていたのである」という大前提が崩れてしまうからです。

 出奔せざるをえなくなっても、なお信長から人質を要求する義昭の傲慢さの根拠はそこにあります。信長や光秀などが定めた法度に手足を縛られるよりは出奔することを望んだとも言え、その方が得策であると考えたためです。

 信長にとって義昭の出奔という事態になっても、光秀や藤孝をはじめ大方の幕府関係者たちが信長に協力するという見通しがつかなくてはなりませんでした。できれば、「奉公衆」「奉行衆」などの要請にしたがうという形態こそが、信長にとっては望ましい政治状況であったと考えられます。それについて信長は細心の注意を払っています。(略)

(略)ここで重要なことは、光秀をはじめとして大方の「奉公衆・奉行衆」などが何のために残ったかということです。信長のためでも保身のためだけでもなく、足利幕府体制の存続のためです。信長が義昭を朝廷に申請して解官しなかつたこともそれを裏づけます。

(略)こうして将軍が出奔したことにより信長は将軍職を代行し、室町幕府の組織は明智光秀に統括させて京都に残していたことになります。室町幕府は、将軍と幕府が分離された状態になっていてもこのような状況は「明応の政変」(1493年)以来繰り返しており、社会学的、歴史学的、あるいは物理的にもここで滅亡した事実はありません。(p276-277)

『鉄砲とその時代』(三鬼清一郎 教育社歴史新書)p74

 信長はもちろん、将軍そのものを否定するつもりはなく、義昭も信長の指図どおりに動いたわけではない。だが、形式的にみれば、信長は副将軍としての地位にあったと思われる。信長は、山城・近江など幕府の直接支配がおよぶ地域には、弾正忠という官職名で朱印状を出している。これは、律令制下の八省から独立して設けられ、犯罪の取締りや風俗の粛正にあたった弾正台の役人(四等官のうち第三順位)を意味する名称で、京都における治安維持を本務とする信長にとって、ふさわしいものと言えるかもしれない。寺社に宛てて、軍勢の乱妨狼藉・陣取放火・竹木伐採や私的に矢銭や兵根米を徴収することを停止する内容の禁制が多く出されている。

 これまでの信長は、自己の領国へ出したものは、下知状様式の文書で、直接に命令を伝達する形をとっているが、弾正忠を名乗ってからは、「仍執達如件」「御下知の旨に任せ」といった、義昭の意志を伝達する奉書形式のものとなっている。これは、室町幕府の管領が発給する奉書形式の御教書と近似しており、その意味から、信長は実質的には将軍を補佐する地位にあったと言えよう。

 義昭と信長の関係は、征夷大将軍と弾正忠という官職にもとづいた支配・被支配の関係によっており、この官職は天皇に任命される形をとっている。律令制下の官職が、当時においては形骸化していたことは言うまでもないが、このようなものを用いることによって、義昭と信長の関係に、主従制に近い問柄をつくり上げていくのである。

注9-4)「君主権」と「統治権」・・・「中世の二元性」という概念の中で

中世の二元性の一つである「君主権と統治権」、こういう視点もないままに我々は戦国時代を見て来た。

さらに、「東国と畿内・西国の二元性」「封建制と律令制(公家一統)」という二元性も見逃してはならない。

○さて室町幕府の根本的な統治原理とは、南北朝の動乱を経て京都で幕府を開いたことに起因する三つの二元化から成り立っている多元的な国家体系を容認したことにあります。

 第一に天皇の存在と将軍から日本国王へ発展することによって生じた王権の二元化です。

 第二は武家階級の利益を代表する将軍が握る君主権(主従制的支配権)と分離されて、武家政権が広く公権力を担うことによって生じることになった寺社やその他荘園領主など他の支配勢力(権門)と武家階級の利害との確執に直面せざるをえない統治権(統治権的支配権)の二元化です。

 第三は、関東あるいは奥州を将軍の管轄外として独立させ、鎌倉公方(後古河公方)に伊豆・甲斐十力国を加えた広汎な支配権を移譲したことによる東西の二元化です。

 室町幕府の歴史はこの三つの統治原理の調整と相克に終始したといえます。この三つの課題は織田政権に持ち越され、室町殿の職責を担った信長にもたらされたことになります。(p295)

○君主権を持つ将軍には捲土重来が成り立つのですが、将軍から統治権を委任された足利直義や信長、あるいは鎌倉の北条氏は大きな敗北を一度でもしたならば、再起不能を意味するからです。義昭が信長の課した法令を守るよりは、出奔する道を選んだのはそのためです。

 実際、信長は義昭を解官することができなかったのです。しかもこの将軍に対抗するために国家権力である朝廷に従属し、秀吉のように関白となって直接的に天皇を奉じれば、頼朝以来の武家政権の伝統を放棄することとなり、武家階級全体の支持を遅かれ早かれ必ず失うジレンマに陥ることになります。(p296)

○信長といえども、足利幕府体制の「統治権的支配権」から派生した最大権力である織田政権の実態から言って、足利氏に代わる新しい正統性を具体化することはそんなに簡単なことだったのでしょうか。

 確かに信長の統治権は支配領域を拡大することによって強化され続けてきました。ところが君主権を統治権に従属させる、あるいは統合させる必要性が必然的に顕在化する段階にまでいたると、明智光秀が基盤とする足利幕府体制を前提とする伝統的な価値体系と大きな矛盾をきたすことになります。(p297)

(注9-5)(信長公記 巻十五)信長公甲州より御帰陣の事

四月十日、信長公、東国の儀仰せ付けられ、甲府を御立ちなさる。(略)

四月十二日、もとすを、未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士の根かた、かみのが原、井手野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、富士山御覧じ候ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり。同じく根かたの人穴御見物。此処に御茶屋立て置き、一献進上申さるゝ。大宮の社人、社僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ケ原にて御馬暫くめさせられ、大宮に至りて御座を移され候ひき。

 富士山ろくに馬を馳せ、「お狂い」なさる信長公。信長は、尾張国の平定戦のころ、あるいは稲葉山城攻略の頃、「天下統一」を考えていたか。ちなみに「天下布武」は、畿内布武のことである。当時は、「天下」は将軍のおひざ元の地域である畿内をさしていた。信長は「天下布武」という言葉を使って、足利将軍家の君主権を尊重しつつ、織田家は幕府を支える執事として統治権的権力の獲得をすべく目指していたのである。信長が、中世の枠組みを超えるような「天下統一」を考えたのは、武田を制圧して後、東国が足下に入ってからであろう。東西の二元性という中世の枠組みの一つが崩れるとともに、もう一つの二元性「君主権と統治権」も崩す見通しが可能になった。その「場」に立たなければ、しかるべき発想は生まれないと思う。

 

(注9-6)信長の政権構想と光秀の制度防衛 

○そもそも六代将軍足利義教を殺害した「嘉吉の変」の際の赤松氏のように、直接身の危険を感じた正当防衛でなければ将軍を殺害するというような行為はありえないことです。また、三好氏はこの未曾有の将軍御所を襲って将軍を殺害するという行為を正当化するため足利義親(義栄)という義輝の対抗馬を用意しておく必要がありました。一方明智光秀の場合は、体制側からの反乱であって、制度防衛ということになります。さらに心理的には将軍殺害を正当化する上では、名目的にしても、将軍の上位に位置する天皇の暗黙の了解があることも前提となります。(p263-264)

○義昭が出奔して以来、この時点まで信長が「御内書」をそれまで一度も出さなかった理由とは、明智光秀のみならず「畿内の直奉公の者共」、「只今信長扶持を請けしめ公方衆」、敵対していた諸大名あるいは天下の外聞をはばかっていたことになります。ここで信長の天下構想の意図が書状形式の上で室町幕府の再興ではなくなったことが明白になったと言えます。(p289)

○朝廷の窓口である武家伝奏勧修寺晴豊という公家が記した『日々記』は、天正十年四月二十五日に信長を「太政大臣、関白、征夷大将軍かいずれかに任官させる」との打診が朝廷側からあったことを記しています。これがいわゆる「三職推任問題」です。(p331)

○光秀が「サテモカヨウナル目出タキ事ヲハシマサス我等(私も)年来骨ヲリタル故」(川角太閤記)と述べて信長を激怒させたとしても、それが家康を意識しての言動であるとすると理に適っています。この光秀の言動はあくまで伝聞であり、その意味では信用できないところがありますが、武田攻めの頃から信長と光秀の関係が微妙になっていった推移はその政治的背景からも観測できると思います。信長が家康に認めた織田政権下での地位を、「織田・徳川同盟」に基づく年来の論功によって獲得したものであることを光秀に説得しようとしたならば、「我等(私)も年来骨おりたる故」と光秀が抗弁することは、これまで幕府衆を代表し、織田政権に尽くしてきた立場としては自然な言動と言えます。信長は両者の融和を図ろうとしましたが、安土での光秀による同年五月十五日からの家康への饗応は不首尾に終わります。(p333)

○信長が「茶の湯政道」を発展させた理由は、前右大臣・前右大将として、将軍権力を代行していた事実はあるものの、「御成」が足利将軍の特権であったことから、それを憚らざるをえなかったという実態があります。竹本氏は、信長が行った「茶の湯政道」というものは、信長が下賜した名物茶器を使用して茶会を開くことによって、信長に近い上層部にいることを顕示するためのものであったとしています。(p337)

○当初信長が意図した計画とは、安土城にある明智光秀邸に家康を招いての自身の「御成」であったのではないのかと考えることができます。亭主である光秀がこれを直前になって拒否したことは、前代未聞のことで信長の権威を大きく貶めるものであったことは論を待たないところです。(p340)

○信長は武田氏を滅ぼして東国平定の目途をつけて以降、前述した「御内書」など、なし崩し的に足利将軍のみに認められていた権限を行使しようとしましたが、明智光秀は断固それを認めなかったことになります。幕府官僚機構を統括していた光秀が信長の「御成」を認めることは、信長を足利将軍に代わる武家の棟梁として認知することになり、それは足利幕府体制の否定を意味するものであったからです。(p343)

○藤孝の消息が安土で消えることから、藤孝は事件直前まで信長か信忠の近くに置かれ、身動きが取れぬように半ば人質として随行し、上洛していたと考えられます。信長は、光秀と藤孝を分離しておけば、あたかも起爆装置を外したことになり、反乱は起きないと考えていたことになります。(p345)

○(山崎の戦いで)特に政所執事家嫡流伊勢貞興が戦死したことは、室町幕府における伊勢氏の地位、光秀がその後見人であつたことも含めてこの戦いの性格を象徴していることになります。

「山崎の戦い」は、明智光秀がこのような畿内の幕府及び周辺勢力の総力を結集しての敗北でした。それは「討死等数輩数しれず数知れず」(『兼見卿記』)、「首どもを信長はてられ候跡に並べ候。三千程これある由候」(『日々記』)というように、熾烈を極めました。(p353)

(注9-7)正親町天皇

○正親町帝と将軍義輝は、改元、キリスト教禁教問題等で鋭く対立していました。義輝殺害後、朝廷の女官の日記である『御湯殿の上の日記』の五月二十一日の条には、三好日向守長逸と三好義継の名代が参内し、御酒が帝から下賜されたと記しています。(p264)

(注9-8)徳川家康

 通説とは違い、本書では新興勢力として強力な徳川家康像が浮かび上がる。彼らは武家の本来の統治として、東国の支配を要求する。安国寺恵瓊の予測どおり「信長は公家となり、やがて高転びにころげる・・・」こととなる。

○(徳川は織田に協力し)十年の歳月を経て、傘下の尾張・美濃、家康の三河の武士集団は新しい武家秩序の構築と再編を要求し、その勝利と犠牲の蓄積によって信長を突き上げ、その器量はここで大いに試されることになります。(p286)

○室町幕府の管轄下の諸大名に上洛を「五カ条の事書」と同日中に命じたことは、信長の「統治権的支配権」とその権限が及ぶ「領域的支配権」の根拠が室町幕府と強く結びついていたことを証明するものです。天正十年は信長の「統治権的支配権」が室町幕府の実効支配権の及ぶほぼ全領域にまで拡大したという意味でその画期となります。

 また、信長は室町幕府の直接的な支配・管轄領域から逸脱し、独自にその統治権を全国に向かって浸透させる段階に至ったことになります。しかし関東は信長が直接的に支配する領域とはなりえないことも、その政権構想を知る上では重要な意味を持ちます。(p293)

○信長は重臣の滝川一益を「関東管領」の地位につけようとしたことからみてもこの体制の枠組みを維持しようとしていたことがわかります。「関東管領」が信長の重臣であったということは「関東の公方」もしかるべき人物が予定されていたことになります。一体信長はこの地位を誰に任せようとしたかがその政権構想において最大の問題となります。(p306)

○室町幕府は足利義満が清盛以来の大政大臣になったように、公儀権力としては平家の形態であり、その役割を担っていました。織田が平氏であれば、室町殿の領域を直接的に支配し、関東はしかるべき源氏の棟梁を征夷大将軍として間接的にこれを服属させることが源平以来の武家政権として完全な体裁を整えることになります。(p323)

○信長は、自身の政権構想を実現させる前に毛利氏に担がれて抵抗する現任の征夷大将軍であつた義昭を解官に追い込み、同時に家康を上洛させ、信長が太政大臣を宣下されると同時に新田源氏として 家康を征夷大将軍に推挙する腹積もりであつたと考えられます。(p330)                      補遺参照「徳川家康の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説」

(注9-9)豊臣政権

○信長が志向したのは「天下統一」や「天下一統」など本来朝廷の国家観である「公家一統」の概念の具現化ではありません。実はそういうことであった次代の「豊臣関白体制」の成立によってよく誤解されていますが、武家政権である限り、このような発想はありえないのです。(p298)

『鉄砲とその時代』(三鬼清一郎 教育社歴史新書)より

○秀吉は、天正十三年(1585)関白・従一位に任ぜられ、翌年には豊臣姓が与えられ、さらに太政大臣に昇進している。これは、武家出身者としては空前のことである。秀吉は、文武百官を統率して天皇に奉仕するという古代的権威によって、身分制社会の頂点に立ち、下剋上の風潮に終止符を打とうとしたのである。

 関白任官に伴い、京都における居所として、天正十四年(1586)大内裏の跡に聚楽亭を造営した。(略)

天皇の聚楽行幸は、大名・公家に関白としての自己を認識させるために秀吉が演出したものであった。文武百官を率いて天皇に奉仕するという形がみごとに整えられたのである。(略)

○太閤検地の実施状況は一般的には厳格で、隠田は容赦なく摘発され、荒地を開墾した土地でも、一定期間の作り取りを許したのちには、原則として年貢が課せられた。秀吉は「山の奥、海は艪櫂(ろかい)のつゝき候迄」入念に調査し、もしも反抗する者があれば「一郷も二郷も悉くなでぎり」にせよと命じている。(略)田・畠・屋敷などすべての土地は、何反何畝といった面積ではなく、石高で表示されるようになる。すなわち、何万石の大名、何石何斗何升の高持百姓といった形で、大名の支配する領国も、百姓の所持する耕地も、すべて石高で呼ばれるのである。

 太閤検地の施行原則の一つは「一地一作人」である。検地によって石盛(こくもり)がつけられた土地は、一筆ごとに耕作者が定められ、検地帳に登録された。これによって、耕作を行なう権利は保証されたが、年貢納入の義務を負わされ、耕地を捨てて他へ赴いたり、商人になって土地を離れることなどはほとんど不可能となった。

 もう一つの施行原則は「作合否定」である。これは、百姓は領主に対してだけ年貫を納入すべきこととし、たとえば有力な長(おとな)百姓が小百姓を勝手に使役したり、加地子(かじし)などの名日で収穫物を取ることを禁止することを指している。中世では、一つの土地に対する権利関係が、名主職・作職などに分かれており、直接生産者である百姓は、それぞれに対して、一定額のものを上納しなければならなかった。この原則は、小百姓が長百姓からの収奪を免れるという点では、経営を安定するうえで有利に作用し、小百姓保護の政策と言えよう。

○主従制の論理が貫徹し、身分の固定化への動きがみられる時期に、それとは異質な、国郡制的な支配原理が顕在化する。このような、封建的支配とは次元の違った原理が、封建的ヒエラルヒーが完成した時期に現われるという点に注目する必要があろう。天正十九年(1591)、関白秀古は御前帳(ごぜんちょう)の作成を指示した。御前帳とは検地帳を指すが、禁中へこれを納めるため、全国の村―郡ごとに朱印高(朱印状によって公認された石高)を調査し、郡ごとの絵図を添えたもので、これを国別に集計し、国絵図にまとめたものである。

 天正ニ十年(1592)、関白秀次は人掃令(ひとばらいれい)を発した。これは家数・人数の調査で、男女・老若・奉公人・町人・百姓などの区別もつけられている。村単位で調査し、これを郡―国別に集計する点は全く同様である。

 御前帳の作成と人掃令の発布は、いずれも関白としての権能にもとづいて指示されており、全国いっせいに、同一基準で、村―郡―国という行政組織にしたがって実施されたところに著しい特徴が認められるのである。すなわち、個別領主の支配領域や知行形態の相違を超えて行なわれたもので、実際の調査が大名に委ねられたとしても、大名領国ごとの数値は計上されないのである。(略)この調査は、太閤検地の全国的施行を前提として行なわれた。すなわち、領主―農民間の一元的な支配関係が、生産物地代の収取を基軸にして体制的に確立したことが、全国的に人口と石高の調査を可能にしたのである。(略)

 このような調査が、全国いっせいに、領有関係を無視し、関白の権限にもとづいて行なれたことは、国郡制的支配原理が、現実に機能していることの一例を示すものと言えよう。これは、封建的知行関係=主従制の原理とは明らかに異質であり、いわゆる統治権的支配に属するものである。それゆえに、封建国家を国家としてまとまりをつける核としての役割を果たすものと言える。秀吉を頂点とする封建的ヒエラルヒーが国家として成立するためには、封建制とは異質の原理によって、その枠組が与えられる必要があったのである。

 この枠組とは、国郡制という律令制的な支配機構のことで、その権力の淵源は天皇の統治権にかかわっている。封建国家の成立期に、伝統的な国家支配の枠組が強く機能していたことが、改めて確認されるのである。

○天正十八年(一五九〇)、秀吉は、小田原征伐を行い、最後の戦国大名・北条氏を圧倒的な武力の差をもってこれを滅ばし、家康を関東に入部させた。家康の領国であった三河・駿河・遠江など五か国には織田信雄を入れようとしたが、国替を拒否した信雄は改易となった。これによって、尾張から織田政権の後裔も駆逐され、秀次の領国となったのである。家康の旧領国には、秀次の家臣が取り立てられた。

(注9-10)徳川幕藩体制

○信長は幕府、朝廷、寺社、荘園領主などに権力が分散し、混乱が絶えなかった中世社会に対して、武家階級が暴力を独占する武家独裁によって天下秩序の回復を試みました。正しくその政策は「幕藩体制」の根幹の論理となります。そして信長は室町幕府が開幕以来かかえた君主権と統治権の二元化、幕府が京都に置かれたことで生じた関東との対立による東西の体制の二元化、将軍が日本国王となったことによって生じた王権の二元化という三つの課題を解決しなければなりませんでした。(p282)

○信長の事業は、その専制を目的にするものではなく、武家階級の独裁によって戦乱の世が続く日本社会を安定化させようと試みたものでした。それはそのまま「幕藩体制」に継承されました。信長が使用した印章である「天下布武」とは正にその理念を見事に表現していると言えます。近世を創始した「織田・徳川同盟」が究極として求めたものは、武家による「統治権的支配権」の確立を根拠に新たな君主権を創始する運動であったと考えられます。そこに「織田・徳川同盟」を一体として考えなくてはならない理由があります。(p294)

○天正十年(一五八二)三月に武田を滅ぼして、領域的な支配権力が全国まで拡大する公算が高くなった段階で、将軍の専権である幕府の人事権を信長が掌握する必要性も必然化することになります。

それは信長・信忠親子、そして同盟を結ぶ家康の人事を中心に、室町幕府に代わる新しい武家社会秩序を構築することを意味します。

 織田信長も武家である以上、それは頼朝以来の武家の国家体制を引き継ぐことになります。武家の国家体制とは中央集権を志向する国家権力である朝廷の「公家一統」の国家体制に対して関東を基盤とした東国国家を包括することが前提であり、「東西複合国家体制」であることを指します。(p303)

○織田政権の飛躍の秘密の一つは、畿内支配を支える「織田・明智体制」と、東部を支えている「織田・徳川同盟」が両輪としてよく機能したことにあります。天正十年六月二日に近づくにつれてこの信長の三つの権力基盤の中で、その政治的立場が相対的に弱くなってきたのは光秀です。

 そういった状況の中でいかなる事情があるにせよ、光秀の軍事力を強化するようなこと(佐久間信盛の失脚による光秀の台頭)はバランスオブパワーの大原則から考えても、得策ではなかったことは明らかです。

 織田家臣団と徳川家臣団の一致する利害とは、これら新興武士集団による足利幕府体制に代わる新たな武家支配体制の構築ということになります。江戸幕府の支配構造が、正にこの体制となっているのはそのためです。(p317)

 

 

※以下全て、閑話休題。

 

歴史上の事実そのものは過ぎ去り、すでに消えた過去である。

カントの「物自体」のように直接には捉えられない。現象を通して、つまり遺物や文書を手掛かりに構想力を働かせて、意味付けが行われる。そして、構想力たるや、どうしても現在に捉われる、さらに戦国時代とはこういうものだという予断に捉われる。故に、同じ事件でも、幾多の説がとなえられる訳である。

 

補遺1:(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説を比較する

本書の説がいかに通説や奇抜説と異なるかを、以下に2~3の事例を示して述べる。本書は、単に異説を唱えたものではない、まして群小の説と並列にあるものではない。歴史を、構造的に捉えるからこそ納得のいく説となっているのである。真理とは、「どれだけ諸事を矛盾なく体系的により広い範囲で説明できるか」である。

 

●明智光秀像の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説の比較

 

(1)通説例:司馬遼太郎の明智光秀像(『国盗り物語』より)

美濃明智城主の嗣子。斎藤道三の近習。濃姫(道三の娘、信長の妻)の従兄。鉄砲の名手。怜悧な軍略家。室町礼式の典礼故実に通じた文化人。和歌・連歌の達者。牢人して、諸国流浪の苦節と心の苛立ちを経て、チャンスをつかむ。すなわち、足利義昭を将軍に擁立する策の実現とともに、将軍と織田信長の両方の家来となる。ここから明智光秀の活躍が始まる・・・。

司馬遼太郎の小説は、彼の歴史観・文明観の枠組み中で登場人物が動くような仕掛けである(※)。氏は小説のストーリィを登場人物たちが演ずるエピソードを重ね合わせて展開させる。要所に、一見無関係ではあるが、氏の持つ該博な歴史知識(※)と地理知識(※)を何気なく散りばめて読者サービスに努める。しばしば自ら創作したエピソードを絡ませる(※)。読者にはどこまでが史実かフィクションかの区別はできない。さらに、世間知を披歴して(※)、登場人物に行動させたり言わせたりする。

戦国時代を舞台にしているが、企業の栄枯盛衰の物語、その中で働くサラリーマンの出世物語、世故に長けた組織内の遊泳術を読むようである。中年のおじさんの教養小説と言える。

光秀と信長の相克は、会社内の人間関係、個人的な心情のように描かれている。

明智光秀の対信長意識。

・妬み 能力は自分の方が優れているのに、信長には世に出る踏み台があること

・感謝 長い浪牢の身から、取り立てられ、城持ち大名に封ぜられたこと

・驚愕 いままで誰も作らなかった石垣と天守を持つ壮麗なる城・安土城を創造したこと

・恐れ 行く手を阻む者は、坊主も一揆も皆殺しにする。譜代の家臣も無能なら追放すること

・不安 信長が重用する者は秀吉か? 秀吉は中国を平らげ、己を抜くのか? 

・侮蔑 和歌・連歌などをたしなまないのは粗野である

・尊敬 ほとんど無し

・恨み いきなり領地を召し上げ、秀吉の応援部隊として使役する命令が下る

・殺意 満座の中で折檻を受ける。嘲弄され、眉間を勾欄に打ち付けられた恥辱。

 織田信長の対光秀意識。

 ・有能 公家や諸大名との外交、さらに合戦も、そつなく行う

 ・煩い いちいち理屈で政策の非を唱える

 ・軽蔑 故実、慣例にとらわれ頭の固い真面目なやつ

 

(2)奇抜説例:『光秀窯変』(岩井三四二)・・「当代記」(寛永年間(1624年1644年)頃に成立したとされる史書)に、光秀の年齢に関して以下の文があり、これを基にして小説のストーリーを奇抜に組み立てている。

 

「そもそも明知日向守光秀は一僕の者、朝夕の飲食さへ之しかりし身を 信長取り立てたまい、坂本の主として、その上丹波国一円を下される。いかかる不思議存立の事、是非に及ばぬ次第なり。たちまち天の責めをこうむり、同十三日に相果て、跡形なくなる。時に明知は六十七歳。」(当代記)

 

 読むうちに、年齢と共に進む光秀の痴呆症だが、ストーリィに感情移入する読者もまた意識が朦朧としてくるような真に迫る描写である。光秀は壮年のころは才気煥発、織田家に忠節を尽くしその発展に貢献してきた。しかし、主家の勢が盛んとなって若手が育つと、取り残され粗略に扱われるとの被害妄想が高まる。ボケ行動が次第に重なり、現実との乖離が深まり意識朦朧に至る光秀だが、たどる運命は悲劇的で哀れである。

 

(3)本書『明智光秀の乱』(小林正信)の説

○光秀とは何者だったのか? 

・信長が足利義昭を奉じて上洛してから一月あまり過ぎた永禄十一年十一月十四日、突然、明智光秀という正体不明の人物が今日伝わる確かな史料に忽然と登場する。光秀は、信長の家臣ではなく、室町幕府の官僚機構を牛耳る大物「奉公衆」であった。だからこそ信長は、この人物をヘッドハンティングして、破格の地位を与えた。しかし信長の「天下構想」は、光秀の「室町幕府再興」の信条とはやがて乖離していく。光秀が統括した幕府官僚機構の上で君臨していた天下人の土台は、もともと危なかった。《帯》より

   

●織田信長像の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説の比較

(1)通説例:『国盗り物語』(司馬遼太郎)・・・幼少時の信長は、世間のしきたりに拘泥しない暴れ者であった。合理的な発想により軍事技術の改革を行った。典拠は、『信長公記』(太田牛一)であろう。

  (信長公記 首巻 上総介殿形儀の事)

 さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り侯ひき。然る間、何方も静謐なり。信長十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり。其の折節、竹鑓にて扣き合ひを御覧じ、兎角、鑓はみじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、三間柄(さんげんえ)、三間々中柄(さんげんまなかえ)などにさせられ、其の比(ころ)の御形儀、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色々貼余多付けさせられ、御髪はちやせんに、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て、ゆわせられ、大刀、朱ざやをささせられ、悉く朱武者に仰せ付けられ、市川大介めしよせられ、御弓御稽古。橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古。平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。御鷹野等なり。爰(ここ)に見悪事(みにくきこと)あり。町を御通りの時、人日をも御憚りなく、くり、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ、町中にて、立ちながら餅をほおばり、人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、御ありきなく侯。其の比は、世間公道なる析節にて候間、大うつ気とより外に申さず候。

 

(信長公記 首巻 山城道三と信長御参会の事)

 四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田(とみだ)の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、山城連々(れんれん)申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実目になき人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧(たくみ)にて、古老の者、七、八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体(ようてい)を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧(お)なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍(いらか)を並べ、健者(すくやかもの)先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、何(いつ)染置かれ侯知人(しるひと)なきかちんの長袴めし、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵(こしら)えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態(わざ)と御作り侯よと、肝を消し、各次第々々に斟酌仕り侯なり。御堂へするすると御出でありて、縁を御上り侯のところに、春日丹後、堀田道空さし向い、はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、諸侍居ながれたる前を、するする御通り侯て、縁の柱にもたれて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。又、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と申す時、であるかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃(さかずき)参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子(ぶし)をかみたる風情にて、又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみじかく、こなたの鎗は長く、扣(ひか)へ立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯、と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後(いご)、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

 

(2)奇抜説例:『女信長』(佐藤賢一)・・・信長は女であった。「その証拠は上記の文章の中にある・・・」と筆者は言い、全編この奇抜説を類まれなる筆力で押し通す。「小説読みのおじさん」には楽しい読み物である。

奇抜説例2:『下天は夢か』・・・津本陽歴史小説。司馬遼太郎の作品の連載時期が、まだおだやかなサラリーマンライフが可能な頃であったのとは引き換えに、本書は、日本経済は絶頂期にあり、やがてバブル崩壊の足音が聞える頃、1986年12月から1989年7月まで『日本経済新聞』に連載された。苛立つような荒々しい、戦国の風塵を感じさせる小説である。

・この時期に、この小説。年功序列を排し、実力主義に徹する織田家のようにすることが強い企業を作ることのように読みとられた。企業にリストラの嵐が吹くのは、この後である。しかし、筆者は密かに異なる見解も挿入していることに当時誰も気に留めなかったのだろうか。「寄せ集めの軍兵は、量的に膨大であっても、武田勢のようにふるくからの在地領主を中心にまとまっている、地縁でつながれた兵団の武力には劣るものである。」

・この小説の特異な点は、作者が剣道に長けリアル残酷な殺陣技の描写があることと、登場人物が名古屋弁を話すことである。信長は、さすがに貴種であるので、ざっくばらんな中にも、自ずから格調高いことば遣いではあるが、周辺人物は名古屋弁まる出しである。

・信長と生駒屋敷の吉野との会話

吉野「お殿さま、なにをお考えなされてございますか」

信長「うむ、城取りを考えておるが、だちゃかんのう」

吉野「お殿さま、いつまでも息災でいてちょーだいあすわせ。あなたさまが合戦よりお戻りにならねば、私も自害いたしまするわなも」

・信長、蜂須賀子六、前田犬千代は、馬で野駆けし河原で鉄砲稽古におもむく・・・。

信長「そのほうども、手ぬるいではないか。さような責めようでは、馬は育たぬぞ」

小六「これは韋駄天がようなる信長さまに、ついて参るのはとてものことに、できかぬるでござーいますもんだで」

信長「犬千代は顔が青ざめておるぞ、鉄砲を撃てるかな」

前犬「さようなことはござりませぬに、お気遣いなく、あそばいてちょーでいあすばせ」

信長「であるか、それは豪気じゃ」   

・地元の土豪の噂話

  A「のう、那古野の信長というがんさいは、うつけじゃというていやったが、なかなかの武辺だぎゃ。こたびの戦じゃ清州衆が総出で仕懸けたに、とちめんぼかわく目に逢わされたようなのう」

  B「そうきょん、旦那もそう思いなさるか。どうやらうつけ殿は、このうち尾張随一の弓取りとなられるでゃ。旦那もいまのうちに家来についたほうが、よかろうがなも」

 

(3)本書の著者(小林正信)の説・・・父・信秀は当代一流の師を迎え、信長に英才教育をほどこした。

それが可能なほどに富裕な織田家であった。織田家がなぜ富裕であったのかの理由は(略)。信長は情報収集のため、「別所」に参入した、その場合服装を道中にて隠れて取り換えるものだが、信長は出かける際に服装を変え城下をのし歩いた。信長は、心を許した頼もしい親衛隊を養成していた・・・。

信長は、極めて大胆な戦略を採用した。これは、将軍・足利義輝の後援があって可能となったことであった。長尾景虎は上洛し将軍義輝に拝謁する(天文22年(1553)9月)。ここで、駿河・今川、相模・北条、甲斐・武田が画策している東国の三国同盟(天文23年(1554年))への対策が練られる。今川からの危機が迫る尾張への救援策として、周辺国の支援を計画する。すなわち、隣国美濃が兵力不足の尾張を救援する。信長は美濃からの援兵を、自国の城に入れ留守番をさせ、自らは全軍を率いて村木砦を急襲する(天文23年(1554)1月24日)。

桶狭間合戦(永禄3年(1560)5月19日)もこの方法を採用したに違いない。永禄2年(1559)、信長はわずかな供回りを連れて、上洛し将軍義輝に拝謁している。ここでは、いよいよ上洛戦を開始する今川軍をいかに防ぐかの対策が練られた。長尾景虎は精鋭の兵五千を率いて再び上洛し将軍義輝に拝謁する(永禄2年(1559)4月)。この武威に恐れて、今川軍は上洛の予定を一年遅らす。しかし、今川軍にとって事態は好転せず、翌年(永禄3年5月)尾張に侵入すると苦戦し、諸国の大軍が尾張に充満する想定外な状況に翻弄される中、全軍を戦場に投入できるようになった織田軍に正面攻撃され殲滅されたのである。信長公記(太田牛一)の桶狭間の戦の件は、この戦いの最終段階を記しているに過ぎない。

この戦勝により、義輝は直ちに景虎に命じ、義元の背後にいた北条氏康と古河公方足利義氏に 報復攻撃を行い、翌年春に小田原城を包囲させた。小田原城の包囲は失敗に終わるが、景虎は鎌倉に入り、関東管領に任官する・・・・。翌年、景虎は武田晴信と雌雄を決すべく、川中島にて決戦する(永禄4年)。これが、前後数回にわたり行われた川中島合戦で最大規模となった第四次の戦いである。

かくて織田信長等の力で、すみやかに進み始めた室町幕府再興であり、義輝は信長に大挙して上洛することを命じる(永禄8年)。そうはさせまいと先手を打った三好・松永勢に、義輝は非業に倒れる(永禄8年(1565)5月19日)。この事件とともに、戦国時代は全く別の筋書きが始まる。

 

●徳川家康像の(1)通説、(2)奇抜説、(3)本書説の比較

(1)通説の例:家康は苦労人である。三河の弱小領主の主として、幼い頃は、織田に売られ、今川の人質。桶狭間の合戦では、大高城攻めで功をたてるが、肝心の大将今川義元が討死。石橋を敲いて渡る用心深さで、なかなか撤退しない。織田との交渉の末、ようやく城を出て、三河大樹寺に立ち寄る。岡崎城の今川勢が駿河に帰還し、空き城となったのを幸いとして、岡崎に帰城を果たす。それからは、周辺国との長い戦いが始まる。織田とは同盟を結ぶが、信長の意向で、東奔西走の手伝い仕事をさせられる。嫡子信康に武田内通の嫌疑がかかると、切腹を命じ、同時に母(家康の正室)も死なす。・・・・人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を、常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし、堪忍は、無事のいしずえ、怒りは、敵と思え、勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、害、其の身に到る、己を責めて、人を責めるな、及ばざるは、過ぎたるに優れり・・・・

  合戦譚でも、弱い(けれどもしぶとい)家康像が定着している。

◎三方ヶ原の戦(元亀3年、1572)では武田信玄に完敗する。浜松城に命ちからがら逃げ帰る家康。城門で、馬の轡をとった郎党が笑う「殿は、馬上で憶病糞をたれた」。「なにっ、これは兵糧の味噌じゃ!門を開いておけ、皆が続々と帰ってこようぞ!篝火をどんどん燃やせ、闇の中でも、城の位置を知らせるのだ!」。

家康は、眠る。追ってきた武田軍は、浜松城外の犀ヶ崖に転落しつつも、大軍が城門前に殺到する。しかし、篝火の勢いと開いた城門、落ち着いた雰囲気に度肝を抜かれ、突入を躊躇する、やがて武田軍は去る。

◎浜松城の西の守りの吉田城。長篠合戦(天正3年、1575)の直前のこと、長篠城を包囲していた武田勝頼は急きょ吉田城へと南下する。三河分断の気配を見せて、家康との決戦を挑む策である。徳川家康軍は武田勝頼が着くよりも半日はやく三河吉田城に入ることができた。城門をかため終えたところで武田勝頼軍が着いた。家康の身柄を浜松城からの移動中に拘束するつもりだった模様だが、家康のほうがわずかにはやくてたすかった。武田勝頼は三河吉田城下の民家に火をはなちはじめた。家康を吉田城の外にひきずり出すつもりである。家康は血気にはやる家臣団をおさえ、一歩たりとも城外に出ないことを厳命した。

勝頼は、城門前で嘲弄し家康を城外におびきだし、決戦を迫る。しかし家康は貝の如く門をとざし、吉田城に籠る。勝頼は長篠に去る。織田=徳川の連合軍と勝頼の長篠城外設楽原(有海原)での決戦はこの直後である。

◎姉川の合戦(元亀元年、1575)では、浅井=朝倉連合軍に対し、織田=徳川連合軍で戦う。織田は浅井に対峙していたが、浅井の猛攻に十三段に構えた陣を次々に打ち破られ、本陣も危うくなる。徳川は、朝倉に対峙していたが、これを打ち破り、踵を返して浅井軍の横腹を突く、これが奏功して、織田=徳川は勝利する。

 

(2)奇抜説の例:家康は二人いる、残ったのは影武者である。等々。

  『影武者徳川家康』 隆 慶一郎

  『徳川家康 トクチョンカガン』 荒山 徹

(3)本書の著者の説

 ・ほとんどの小説では、徳川家康を「弱い」立場にしているが、本書の視点では、「家康は強大」と見なしている。徳川家康は、三河武士団を率いて、三河という室町幕府奉公衆の領地を浸食する新興かつ最強の武士団であること、早くから源氏の嫡流(足利に対抗する新田氏)を自称し、伝統的に関東を統べる(織田の方は西を統べる)立場を望み「征夷大将軍」の拝命を狙っていること(織田は平氏を自称しているので、右大臣か太政大臣になる)など着々と布石をしている。また「信康切腹事件(嫡男信康が武田に内通した疑いで切腹、これに伴い妻である信長の娘と離縁)」、「三方ヶ原戦の敗北(織田の援軍の戦場での怠慢、先年の姉川合戦では援軍に出た徳川軍の奮闘との大いなる違い)」などは必ずしも徳川弱体説に一辺倒の証拠とならないこと、などを記している。

・徳川は織田に協力し、十年の歳月を経て、傘下の尾張・美濃、家康の三河の武士集団は新しい武家秩序の構築と再編を要求し、その勝利と犠牲の蓄積によって信長を突き上げ、信長の器量はここで大いに試される状況になっていた。

・天正十年、東国の雄・武田が滅んだ。後は北条などを残すのみ、ここで信長の版図は、室町幕府の当初の版図に及ぶことが見通せた。年来、徳川家康に代表される三河武士団と室町幕府奉公衆とは領地的対立が背景にあること、その徳川家康が織田=徳川連合政権の新たな展開を前にして、「征夷大将軍」の拝命が現実の予定に上り、室町幕府再興を目指す奉公衆としては決して看過できない状況に直面していたこと、などを明らかにしている。

・信長は、自身の政権構想を実現させる前に毛利氏に担がれて抵抗する現任の征夷大将軍であつた義昭を解官に追い込み、同時に家康を上洛させ、信長が太政大臣を宣下されると同時に新田源氏として家康を征夷大将軍に推挙する腹積もりであった、と記している。

 

 

 

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