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しょ~と・ぴ~すの会 第103回 レポート

 

テキスト:小浜逸郎『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(PHP新書)

 

*【  】内は由紀草一による付け加えと個人的な意見。

 

第一章 「天は人の上に人を造らず」の真意  福沢諭吉とは何者か

 福沢は

・欧化主義者ではない。西洋文明はあくまで「さしあたり」の目標であって、決して究極地点ではない。

・国権主義者ではない。重大なのは人民の自主独立の精神を育てることによって、国権と民権との間に常に相互抑制と均衡の関係を築き上げること。→公共精神の涵養。

・オタク学者は嫌い。学問の要は活用に在るのみ。まず「なぜ?」と考えてみる。

・平等主義者ではない。人はただ権利通義(法的人格)において同等であるに過ぎない。

・自由主義者ではない。人は自由であるべきだが、また分限を心得るべきである。

【福沢はおそらく、「自由」を、現行のように使った最初の人。『西洋事情』の最初のほうに次の注記がある。「本文、自主任意、自由の字は、わがまま放蕩にて国法をも恐れずとの義にあらず。すべてその国に居(お)り人と交わりて気兼ねなく遠慮なく自力だけ存分のことをなすべしとの趣意なり。英語にこれをフリードムまたはリベルチと言う。いまだ適当の訳字あらず。」】

・レッテルとしては功利主義者が一番近い。衆心を発達させ人間交際(society)を活発ならしめて、もって万人の幸福を期す。

【理念先行型の知識人ではない。日本最初の近代ジャーナリスト。】

 

第二章 討幕は必要だったのか  幕末維新と福沢諭吉

幕末略年譜(福は福沢に関すること) 旧暦による。

『  』内は「福翁自伝」から。

 

嘉永6年(1853年2月8日 - 1854年1月28日)

6月3日 マシュー・ペリー、4隻からなる艦隊を率いて浦賀に来航、米船の日本への寄港許可と通商を要求。

6月22日 十二代将軍徳川家慶、死去。

7月18日 エフィム・プチャーチン、4隻からなる艦隊を率いて長崎に来航、通商を要求。

7月 幕府、水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に登用

7月26日 老中筆頭阿部正弘、米大統領からの国書を役人や諸藩に公開し、意見を集める。約700通の回答が寄せられ、米の要求は拒絶すべきであるとの意見が過半数を占める。

8月24日 幕府、江川英龍の指揮のもと、品川沖台場の築造。

10月23日 徳川家定、十三代将軍に就任。

 

嘉永7年/安政元年(1854年1月29日 - 1855年2月16日)

1月16日 (1854年2月13日)ペリー、9隻の軍艦を率いて浦賀に再来航。

2月 福長崎へ遊学。蘭語・蘭学を学ぶ。

3月3日 日米和親条約(神奈川条約)調印。その後5月22日、細則まで定めた和親条約(下田条約)調印。→その後翌年にかけて、イギリス、ロシア、オランダと和親条約を結ぶ。

4月6日 吉田松陰、渡米を志して下田に停泊中の米艦に乗り込み、捕えられる。

11月27日 内裏炎上、地震、黒船来航など、変事多しとして、安政に改元。

 

安政2年(1855年2月17日 - 1856年2月5日)

3月9日 福緒方洪庵の適塾に入門。

10月24日 幕府、長崎に海軍伝習所を設立。

 

安政3年(1856年2月6日 - 1857年1月25日)

2月11日 幕府、洋学教育機関として蕃書調所を九段下に設置(のちの開成所)。

7月21日 ハリス、米総領事として下田に到着

12月18日 徳川家定、島津斉彬の養女篤子と婚儀。

 

安政4年(1857年1月26日 - 1858年2月13日)

福適塾の塾頭になる。

10月21日  ハリス、江戸城にて将軍家定に謁見し国書を渡す。

 

安政5年(1858年2月14日 - 1859年2月2日)

2月5日 老中堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を得るために入京

3月12日 岩倉具視等攘夷派公家88人、条約勅許への反対を表明し座り込み(廷臣八十八卿列参事件)

3月20日 孝明天皇、条約勅許を拒否。

4月23日 井伊直弼、大老に就任。

6月19日 日米修好通商条約調印。以後、7月にオランダ、ロシア、イギリス、9月にフランスと通商条約を結ぶ(安政五カ国条約)。

7月5日 安政の大獄の始まり。徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。

『又この人(井伊直弼)が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、是は攘夷論を悪む為ではない、浮浪の処士が横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。是等の事実を見ても、井伊大老は真実間違ひもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至ては、真闇(まっくら)な攘夷家と云ふより外に評論はない。唯その徳川が開国であると云ふのは、外国交際の衝に当て居るから余儀なく渋々開国論に従て居た丈の話で、一幕捲て正味の楽屋を見たらば大変な攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと云ふのも無理はなからう。』

7月6日 十三代将軍徳川家定、死去。

7月16日 島津斉彬急死。井伊への抗議のための挙兵上洛計画頓挫。

10月25日 徳川家茂、十四代将軍に就任。

福10月下旬 藩命によって江戸出府。築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内の長屋を貸し与えられ、蘭学塾を開く。慶應義塾の基。

 

安政6年(1859年2月3日 - 1860年1月22日)

10月27日(1859年11月21日) 吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者

福横浜を見学し、蘭学がもはや役に立たぬと知り、英学の独学を始める。

 

安政7年/万延元年(1860年1月23日 - 1861年2月9日)

1月22日 福日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。

3月3日 桜田門外の変。井伊直弼、暗殺される

3月18日 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため万延に改元。

8月15日 水戸藩主徳川斉昭没す。

9月27日 福遣米使節帰国。

 

万延2年/文久元年(1861年2月10日 - 1862年1月29日)

5月12日 長井雅楽、開国是認の航海遠略策を朝廷に建白。

10月20日 和宮、将軍徳川家茂へ降嫁。

12月23日  文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)、出発。福翻訳方として渡欧。

文久2年(1862年1月30日 - 1863年2月17日)

1月15日 老中安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷(坂下門外の変)。

4月16日 公武合体推進のため島津久光、兵を率いて入京。「三事策」を決め、勅使大原重徳の護衛として江戸に赴き、直接幕府に伝える。

4月23日 寺田屋事件。久光の命令により薩摩藩攘夷派一掃される。

5月9日 ロンドン覚書調印。兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期することが認められる。

7月6日  三事策に基づき、一橋慶喜が将軍後見職に、7月9日松平慶永が政事総裁職に任命される(文久の改革)。

8月1日 京都守護職が設置され、会津藩主松平容保が就任。

8月21日  生麦事件。江戸から京都へ向かう久光一行の通行を妨害したとされたイギリス人4人が殺傷される。

12月12日 高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち

12月 福フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを経て帰国。

『それでも私に全く政治思想のないではない。例ば文久二年欧行の船中で、松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、そのとき私が「ドウダ迚(とて)も幕府の一手持は六かしい、まず諸大名を集めてドイツ聯邦のやうにしては如何」と言ふに、松木も箕作も「マアそんなことが穏やかだらう」と言ふ。』

【福沢は慶応2年の建白書では幕府専制を唱え(P.77~78)、慶応3年には幕府無用論を言っている(P.82~83)。】


文久3年(1863年2月18日 - 1864年2月7日)

2月2日 長州で尊攘派の台頭により長井雅楽は失脚し、切腹を命ぜられる。

3月4日  徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。

4月20日  徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。

5月10日  長州藩、下関で外国商船を砲撃(下関戦争)。

5月 慶喜と対立して政治総裁職を辞任した春嶽は、横井小楠による献策「挙藩上洛 大会堂計画」を発表。→7月に断念。P.134

6月1日 米国、下関に報復攻撃。

6月5日 フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。

『その時(緒方洪庵の通夜時)に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから「オイ村田君、君は何時長州から帰て来たか」「この間帰た」「ドウダエ馬関では大変なことをやつたぢやないか。何をするのか気違い共が、あきれ返た話ぢやないか」と言ふと、村田が眼に角を立て「何だと、やつたら如何だ」「如何だつて、この世の中に攘夷なんて丸で気違の沙汰じゃないか」「気違とは何だ、けしからんことを言ふな。長州ではチャント国是がきまつてある。あんな奴原(やつばら)に我儘をされて堪るものか。殊にオランダの奴が何だ、小さい癖に横風な面している。これを打ち攘(はら)ふのは当然だ。モウ防長の士民は悉く死に尽くしても許しはせぬ、どこまでもやるのだ」と言うその剣幕は以前の村田ではない。(中略)当時村田は、自身防禦のために攘夷の仮面を冠っていたのか、または長州に行って、どうせ毒を舐めれば皿までというような訳で、本当に攘夷主義になったのかわかりませぬが、何しろ私をはじめ箕作秋坪その外の者は、一時彼に驚かされてそのままソーッと捨ておいたことがあります。』

7月2日 薩英戦争。

8月13日 会薩同盟成立。

8月18日 八月十八日の政変。七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。

10月5日 薩英戦争の講和成立、賠償金2万5千ポンド支払い。この交渉を通じて、薩摩と英国が接近。

12月29日 横浜鎖港談判使節団、フランスへ向けて出発。

12月30日 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)朝議参預に任じられる。

→これ以後、翌年の3月まで参預会議が開かれるが、意見不統一のために何らの結論も出せず、参預体制自体が崩壊する。

 

文久4年/元治元年(1864年2月8日 - 1865年1月26日)

福幕府に召し抱えられ外国方翻訳局に出仕。

1月15日 徳川家茂、再度上洛。

3月19日 西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される。

3月22日 第二代フランス公使レオン・ロッシュ着任。

5月  神戸海軍操練所設置。江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関。→禁門の変後、入所者に多数の攘夷派の志士がいたことから勝が失脚、翌年廃止。

7月19日 禁門の変。薩摩藩・会津藩が、御所を攻撃した長州藩を京都から駆逐。

8月5日 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。ただし、長州は幕府の決めた攘夷決行に従っただけだとして、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになる。

9月11日 西郷隆盛、勝海舟会談。

11月18日 第一次長州征伐。→12月5日、長州藩、戦わずして降伏。

12月15日 高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵)。長州藩の藩論が倒幕に統一される

 

元治2年/慶応元年(1865年1月27日 - 1866年2月14日)

4月7日(1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元。

閏5月2日(1865年5月26日) 第二代英国公使ハリー・パークス着任。

9月16日(1865年11月4日) パークスの主導で英仏蘭三ヶ国艦隊、兵庫沖に来航。条約勅許と兵庫の早期開港を求める。

10月5日(1865年11月22日) 朝廷、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず。

 

慶応2年(1866年2月15日~1867年2月4日)

1月21日 薩長同盟成立。

5月13日 幕府、英米仏蘭に迫られ改税約書(江戸条約)に調印。輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増。

6月7日 第二次長州征伐開始。しかし薩摩藩は出兵を拒否。

7月20日 将軍家茂、死去(20歳)。

8月20日 小栗忠順、ロッシュの仲介によりフランスからの600万ドルの借款契約に成功。これにより幕府の近代化と軍事力の強化を目指す。

9月2日 幕府、長州征伐を断念。講和成立。

12月5日  徳川慶喜、十五代将軍に就任。

12月25日 孝明天皇崩御。享年37(満36歳)。

12月  福『西洋事情』第一編三巻出版

 

慶応3年(1867年2月5日 - 1868年1月24日)

1月9日 睦仁(明治)天皇即位

1月 福幕府の軍艦受取委員の随員としてアメリカに赴き、東部諸州を回り6月帰国。

3月25日 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約。

5月4日 四侯会議(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)。→21日まで合計八回開催。長州藩の処分と、兵庫海溝問題が話し合われる。文久三年の参預会議の焼き直しで、同じように、なんらの結論も出せずに終わる。→24日 徳川慶喜は独自に朝廷に働きかけ、兵庫開港の勅許をえる。

6月10日頃 坂本龍馬、土佐藩参政後藤象二郎に大政奉還を含む船中八策を提示。

9月18日 毛利敬親、討幕挙兵の断を下す。

10月3日 山内容堂、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出。

10月14日 討幕の密勅、薩摩藩と長州藩に下る。

10月14日 徳川慶喜、政権返上を上奏。朝廷、これを受けて薩長に倒幕延期の沙汰書を下す。→これ以降、西郷と大久保は江戸で「浪士組」と称する浪人を用い、江戸で辻斬り・強盗・放火・強姦などを繰り返し、幕府を挑発し続ける。

11月15日  坂本龍馬、中岡慎太郎、暗殺される(近江屋事件)。

12月7日  兵庫開港。

12月 岩倉具視、大政奉還後の政局討議のために上洛してきた薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩に王政復古への協力を求める。

12月9日 通常の朝議で、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の赦免、三条実美ら五卿の赦免などが決められた。

→王政復古の大号令。五藩兵が御所の九門を封鎖。親幕府的な公卿を締め出したうえで、大号令を発した。徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止、京都守護職・京都所司代の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

→小御所会議。最初の三職会議。慶喜の辞官納地が決定した。

12月10日 長州軍、上洛

12月12日  徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着

12月25日  庄内藩が薩摩藩江戸藩邸を攻撃

12月28日 徳川慶喜、辞官納地を承認。 朝廷、慶喜を前内府として議定に任じることを決定。大坂城に薩摩藩邸焼き討ちの経緯が伝わり、「薩摩討つべし」の声が高まる

 

慶応4年/明治元年(1868年1月25日 - 1869年2月10日)

1月1日 慶喜、「討薩表」を発し、翌日、大阪から京都へ向けて出発

1月3日 慶喜の入京を阻止せんとする薩摩兵の一斉射撃によって鳥羽・伏見の戦い起こり、戊辰戦争始まる

→朝廷では緊急会議が召集され、大久保利通は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗の掲揚が必要」と主張したが、松平春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。議定の岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。

1月6日  徳川慶喜、大坂城を脱出、海路江戸に戻る

1月7日  徳川慶喜追討令。

1月14日 明治天皇元服し、大赦が行われ、王政復古の国書を各国公使に付す。

1月15日 徳川慶喜、主戦派の中心人物である小栗忠順を解任、恭順の意を表明。

1月25日 パークス、戊辰戦争に対する英国の局外中立を宣言。他国もこれに追従。

2月12日 徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎。

2月23日  勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命される。

2月30日 各国公使ら初参内。英国公使パークスは暴徒に襲われ、翌月参内する。

3月13日 勝・西郷会談し、江戸攻撃中止が決定

3月14日 五箇条の御誓文発布(公家・大名向け)。

3月15日 五榜の掲示発布(民衆向け)。

3月21日 明治天皇、大坂行幸のため京都を出発。閏4月8日京都に還幸。

4月11日  江戸城無血開城。

閏4月6日 小栗忠順、斬首。

閏4月25日 新政府軍、白河への攻撃を開始。会津戦争始まる。

5月2日 新政府、長岡藩の中立要請を拒否、北越戦争始まる。

5月3日  奥羽越列藩同盟成立。

5月15日 上野戦争。彰義隊、一日で壊滅。

7月17日 江戸を東京と改称。

7月29日 新政府軍、越後を平定。

8月21日 新政府軍、会津領内に侵攻。→9月22日会津藩降伏。

8月27日 天皇即位式行なわれる。

9月8日  明治に改元、同年1月1日に遡って新元号を適用。一世一元の制を定める。

9月16日 榎本武揚・永井尚志ら、開陽丸など旧幕府艦隊主力を率いて品川沖を脱走。ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団の一部もこれに同行。

9月20日 明治天皇、東京行幸のため京都を出発。

9月23日 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟瓦解。東北平定する。

10月1日 弘道館戦争。旧幕府軍残党が水戸に侵攻するが敗退。→6日松山戦争。水戸から転戦した旧幕府軍残党が全滅。本州における地上戦は終結。

10月13日 明治天皇、江戸城に到着。名を「東京城」と改める。→12月22日京都に還幸。

10月22日 榎本軍、大鳥圭介・土方歳三らを加えて箱館府軍と交戦。箱館戦争が始まる。

12月15日 蝦夷共和国成立。

12月28日 諸外国、局外中立を解除。明治政府が日本の唯一の正統政府とみなされる。

【それこれする中にここに妙な都合の宜いことが出来ましたその次第は、榎本が函館で降参のとき、自分が嘗てオランダ在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国のためにとて官軍に贈て、その書が官軍の将官黒田良助(黒田清隆)の手にあるといふことを聞きました。ところで人は誰か忘れたが、ある日その書を私方に持参して、何の書だかわからぬがこの蘭文を翻訳して貰たいと言うから、これを見ればかねて噂に聞いた榎本の講義筆記に違ない。これは面白いと思ひ、蘭文翻訳は易いことであるのを、私は先方に気を揉ませる積りで態と手を着けない。初めの方四、五枚だけ丁寧にわかるやうに翻訳して、原本に添えて返してやつて、これは如何にも航海にはなくてはならぬ有益な書に違ない、最初の四、五枚を見てもわかる、ところが版本の原書なれば翻訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にもわかりかねる、誠に可惜(おし)い宝書でござると言って、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をしてただ翻訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、いわば伏線の計略を運(めぐ)らした積りである。】

 

第三章 松陰、小楠、海舟、隆盛 志士・思想家たちと福沢諭吉

◎吉田松陰

純粋で狭隘な精神主義者。P.110

◎横井小楠

一種の共和制主義者。幕末に一種のブームとなった公議政体論の理論家。 

学政一致論を唱え、郷里熊本での不遇を招く。

外交に関しては、道理を最も重んずべき。

国内一致の海軍を創設すべき。

財政のためには札(銀札)を発行すべし。

 福沢との相違。【思うに、小楠は儒者であり、理想としての「堯舜三代の道」は絶えず念頭を去らなかった。そこで常に現実の課題と取り組むことを優先した福沢とは、微妙なニュアンスの相違が生じる。】

〇【徳川氏を含めた諸侯会議によって国政を運営すべしという内容の公議政体論は数多いが、議会(公議所/議政所)の開設まで唱えた論者は明治以前には稀。

幕府では西周らが慶喜に講義し、幕府主導の「公議所」を作る構想まであった。

後藤象二郎らの「大政奉還建白書」は坂本龍馬「船中八策」に基づくとされるが、『議政所は上下に分け、議員は、上は公卿から下は官吏、庶民まで、正明純良の士を選ぶ』など、横井小楠の案(P.145)に近く、影響された可能性がある(竜馬は小楠と親しかった)。

これらより僅かに早い慶応3年5月、赤松小三郎は「御改正之一二端奉申上候口上書」を春嶽、島津久光、幕府に建白している。一種の内閣をもって「朝廷」と称すべきこと、他に二院制の「議事院」を開設し、そのメンバーは入札によって選ばれるべきこと、その議決は天皇でも最終的には覆せない(天皇に拒否された場合にはもう一度議事とするが、そこで再び議決されれば国法となる)などを提言。平山洋『「福沢諭吉」とは誰か』(ミネルヴァ書房)によると、これは『西洋事情』中の、英米議会制度の紹介に基づくことは明らか。

新政府は、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」という御誓文の精神を生かすべく、「公議所」後に「集議院」を開設しており、明治2年から4年にかけて会議が持たれた。ただこれは旧幕時代の各藩の江戸留守居役による藩同士及び幕府との連絡調整機関の役割も引き継いでおり、議決には公的な威力はなかった。】

 

◎勝海舟

 『立国は私なり、公に非ざるなり。(中略)忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於いては之を称して美徳と云はざるを得ず。』(「痩我慢の説」))

自主独立とは矜持の問題。感情的なものであっても、これがなくては始まらない。

強敵に抗し難いとて、最初から尻尾を巻くようでは、隷属あるのみ。戦って負けてから白旗を掲げるのはやむを得ないとしても、その後敵に仕えて立身出世するようでは、一国を立てるのに必要な痩せ我慢の精神は台無しになる。

しかし、勝・榎本といった実際の人物についてこれを見れば、ことはそう簡単ではない。

慶応4年の時点での緊急課題は国内統一したうえでの秩序回復。内乱(戊辰戦争)が長く続くのは愚。勝とうとして外国に頼るのは最も愚。(P.79)

 

◎西郷隆盛

幕末には討幕のため謀略をめぐらした。が、権力には恬淡としていて、維新後彼を呼び戻すのに新政府は苦労した。

明治4年~6年、岩倉具視・大久保利通ら政府要人が欧米視察に出かけると、ほぼ一人で留守を預かり、陸軍省・海軍省の設置・学制の制定・国立銀行条例公布・太陽暦の採用・徴兵令の布告・地租改正条例の布告、など、重要案件を実行している。

征韓論に関しては、西郷は板垣退助らとは違い、直ちに朝鮮を討つべしという態度ではなかった。

新政府の、数多の犠牲を顧みずに邁進する近代化路線には気質的にも違和感を抱いていた。しかし故郷鹿児島にあっては、士族青少年の鬱勃たる不満を抑え、暴発しないように心を砕いたが、それがもはやできないと知った時に、彼らの代表として立った。不満をよい方向へと導く方途はあったか?

『政府の専制咎む可からずと雖も、之を放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行はるヽ間は、之に対するに抵抗の精神を要す。(中略)

今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然すべきものなし。』(「丁丑公論」・諸言)

 

第四章 福沢諭吉が考えていたこと  しなやかで強靭な「日本精神」を目指して

◎政治論ブロック

 独立主権国家の確立こそ急務。

 政権(立法、軍事、徴税、外交、貨幣、など国政)と治権(警察、インフラ整備、学校、など地方自治)に分ける。【実際にこれが合理的である他に、二つのメリットがある。①後者に不平士族たちを吸収して暴発を防ぐ、②一般民衆にとって、国会を始める前の実地訓練になる。

『三、五年以来世上に民会論の喋々たるものあれば、政府は早くその勢に乗じて事の機を失ふことなく、姑(しばら)く此の民会論を以て天下の公議輿論と見做し、此公議輿論に従て士族の心を誘導すれば、名義正しく、人心安く、無聊の士族も始て少しく其力を伸ばすの地位を得て、其心事の機を転ずるを得可し。』(「丁丑公論」)

『国会を設けて各地方の総代人を集めんとするには、先づその地方にて人民の会議を開き、土地の事は土地の人民にて取扱ふの風習を成し、地方の小会議中より夫々の人物を選びて中央政府の大会議に出席せしめ、始めて中央と地方との情実も相通じて国会の便益をも得べきことなり。故に地方の民会を後にして中央の国会を先にせんとするは、事の順序を誤る者と云ふ可し』(明治10年「通俗民権論」)

 民権とは国民の誰もが無暗に威張っていいということではない。「民権と国権とは正しく両立して分離すべからず」(P.206)『一身独立して一国独立す』(「学問のススメ」)。

戦争を最後の手段として外交に臨めば、そんなに簡単に戦争にはならないものである。軍備を怠る国は丸腰の武士のようなもので、他国の軽侮は免れない。

金が無くては何事も始まらない→日本初の、授業料徴収。→各国間に強い緊張がある今日、財政難に質素倹約は不適切。富国により、熾烈な経済競争に勝つように努めるべき。

自分は宗教は度外視するが、人民の品行を良くするなどの効用があるなら、排撃する理由はない。何教でも、鰯の頭でも、可。→皇室は、日本国民精神のよりどころであり、その神聖性を保つために、常に政治社外に置かれるべきものである。

世の中に完全に良いことはない。文明の進展もまた、害をもたらすこともある。【多事争論は嘆かわしいことではなく、好ましい、むしろ必要なこと。】

憲法は国民の政治に関係する権限を決めておくもの(P.221)。政府は、利害の調整のために強制力を持たねばならないが、その強制力には明確な制限が必要である。

 

◎学問論ブロック

 徳よりは智を重んじるべきである。徳とは、狭く、固定的で進歩がなく、夜郎自大な自尊の念へと人を導きがち。自己を客観視するのは智の働き。

 学問や教育は、人を幸福にする手段なのだから、それ自体を神聖視するのはあやまり。

 政治は現在ただ今の事態に即応して行われなければならないが、学問はより長いスパンで、より広い見地から物事を考究するもの。政治が介入すべきではない。

 

◎経済論ブロック

 実体経済こそ尊重すべき。行き過ぎた金融自由化は資本主義そのものを危うくする。

 公共事業は国民の福利が目的である。しかしインフラ整備によって「人間交際」を活発化すれば、その乗数効果による利益は計り知れない。

貨幣とは預り手形である。単に二者の間の取引ではなく、広く第三者への譲渡性を備えるとき、通貨としての要件を満たす。

→通貨の信用は、現にそれが遅滞なく流通しているという事実に依る。逆に言うと、一万円札は一万円の値打ちがあると多くの人が信じていると信じられるとき、一万円札として流通する。このような流通が実現しているとき、そう信じている人々の共同性、即ち国家が実現していることになる。それなら通貨は金属より紙のほうがよい。

→そうなれば、政府は、経済活動の状況と規模に応して紙幣を発行すればよく、金銀は一般商品と同じ意味しかなくなる。

 

◎脱亜論ブロック

 支那・朝鮮などの隣国は西欧列強の侵略という火災を被っている状態である。今の日本では類焼を防ぐのが精いっぱいで、他国のことに直接関わっている余力はない。

 

終章 いまこそ蘇るべき福沢諭吉  現代日本の危機を超える視座

 福沢文体の特徴 ①漢文の書き下しにある力強さ、歯切れの良さ、論理性。②平易な語り口。③反論者を想定する対話的姿勢。④比喩の巧みさ。

◎現代日本の亡国の危機

  ①グローバリズム(P.323~324)

  ②市場原理主義(P.328)

  ③緊縮財政路線

  ④経済競争力の劣化

  ⑤おかしな立憲主義

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