語りだけが真実である――太宰・落語・物語
2015/11/29
小浜逸郎
Ⅰ.現象と事実(真実)
①誰もが信じて疑わない「客観的事実」という概念をまず取り払いゼロから考え直す。
→フッサール――意識への「射影」をまず認める。確信成立の条件(竹田青嗣氏)
②「現象」と「事実」の区別。現象は事実ではない。夢が夢であると気付いてから、それを「事実」と主張する人はいない。現象とは、一瞬も止むことのない混沌の相であり、変転する「すがた」であり、それは常に時間とともにあり、またそれに接する者、そこに巻き込まれている者の視点によっていくらでも変容する「像」「イマージュ」である。ex.この部屋で講演している私と聞いている皆さん。
世界はまず「現象の多様」である――カントはこのことをよく心得ていたために、いかにして客観的認識が可能であるかという問題について苦闘した。彼の回答は、それは人間に具わった感性、悟性、理性の三段階的な(心的)秩序による構成によって可能となるというもの。
同時に彼は「物自体」は認識不可能であるとし、また純粋理性のアンチノミーの指摘によって理性(理論理性)の限界も指摘した。カントの動機は、ヒュームのような懐疑論者をいかにして乗り越えるかにあった。そうしないと、世界が不安の様相のもとに投げ出されたままで、私たち人間もただカオスの中で秩序なく揺れ動く群れにすぎなくなると思われたからである。カントはキリスト教的有神論と無神論との微妙な境にいる。
ちなみに「物自体」というわかったようなわからないような概念はよく批判を受けるが、これは対象世界に向き合った時の人間の思考のスタイルが必然的に要請する観念、すなわち「ものごとの窮極性」という観念であると考えれば、納得がいく。「宇宙の根源」「素粒子」等々。
そういうわけで、カントは自分の生きた時代の中で、「事実認識」がいかにして可能かという問題については、とことん考えたのである。
③現象が「事実」になるための条件――事実とは、「客観的認識」なる一種の操作(言葉による現象のとらえ直し、編集作業)によって現象が「固定」され「認定」された状態のこと。
ex.池田清彦氏:科学的認識は時間を否定した固定化の上に成り立つ。このとき、当の「事実(確定された言葉)」の内部では、時間が停止して、事実を構成する諸要素が物と物との関係のように並列され、その間での因果律が考えられている。
(参考:ベルクソン『時間と自由』における純粋持続[duree pure]の空間的記号化) このとき、「事実」は「現象」がもつ混沌の流れから自立して「私たちの所有物」となっている。
④この固定化(現象が事実になること)のために必要な三者。
a.「立ち会う人」
b.「伝える人」
c.「認める人」
この三者は互いに重なり合ってもかまわない。一人でもよい。
ex.「トイレでおしっこをしました」――この場合、「認める人」は、行為した自己(あくまで現象)から時間的に超越する自己意識(内在化された他者の意識)。
この三条件にとって大切なのは次の二点。
a.いずれも事実の成立のために「人」が必要であるということ。
b.必ず「ことば――語り」が媒介しているということ。
Ⅱ.「真理」について
「真理」とは、語られた「事実」のうち、次の三つの条件が満たされたもののこと。
①.論理的陳述命題「何々は何々である」か、普遍物語「こういうことがありました。必ずこうなります。」のどちらかのかたちで表される。
②私たちの存在以前にあらかじめ決まっていてしかも永遠に通用すると錯覚されている。
③私たちの生に深くかかわると信じられているが、一方、日常生活の有用性や価値とは自立した体裁を保持するとみなされている。
ex.1:「重いものと軽いものとでは、重いものの方が早く落ちる。重いものは地上に達しようとする欲求が軽いものより強いゆえに。」
ex.2:「神のひとりごイエスは、万人の罪を贖って自ら十字架に架けられた。この神の恩寵を信じれば、あなたは必ず救われる」
ex.3:中生代ジュラ紀には恐竜が存在した。
いずれの例も、言葉による「認定」が伴わなければ、真理として定着しない。たとえば人間と言葉を共有しない犬(乳児でもよい)にとって、恐竜は存在しないし、もちろん重力の観念もイエス・キリストも存在しない。言葉以前に「真理」は存在しない。したがって「虚偽」も存在しない。
Ⅲ.事故や犯罪事実も「語り」によってこそ支えられる。
①証言(自白、否認も含める):「立ち会う人」と「伝える人」の重なり。
では「認める人」にとっての信憑性は、どのようにして得られるか。
a.この人たちの置かれた状況
b.いかにもありそうだと納得させる説明の説得力
c.証人の人格に対する心証
d.認める人」自身の生の経験に基づく想像力
などの複合によって得られる。すべてこれらは、言葉を媒介とする。
たとえば、人格に対する心証は、その人の語る態度に依存する。
また「認める人」の想像力は、その人の実際的・観念的な経験がよりどころ。
その経験の蓄積はまた、言葉の学習によって一定の整理された水準に達している。
→成人の常識的人間観。
*「直感」という言葉はよく用いられるが、この直感もまた、それが的を射ている場合 には、背後に膨大な言語行為(多くの人間との交流史)の累積があって初めて成り立つ
②証拠:証拠を証拠として認定させるのは、やはり言語である。
ex.1:アリバイなどの状況証拠――アリバイがある場合には、主として「立ち会う人」「伝える人」の証言による。 ない場合には、この両者がいない、つまり「語り」の否定態が前面に出る。
ex.2:DNA鑑定などの物的証拠:一致を同定するのは、「立ち会う人」であり、一 致を証明するのは「伝える 人」である。
またそもそも、DNAが一致すれば犯人である蓋然性がきわめて高いという私たちの共通了解は、「近代科学」 という名の「語り」の一スタイルによって構成されたものである。
Ⅳ.では、「近代科学」そのものの信憑性は、何によって保証されているのか。
a.理論的仮説とb.実験・観察の繰り返しによる、c.例外のなさへの確信。d.論文発表。e.他者の追試による再確認。f.権威ある専門家の認定。
この一連の過程において、言葉が関与しない部分は一つもない。
bは適切な(と実験者に思われる)方法の模索が不可欠。そこに思考(内なる言語)が関 与する。cは、aとbとを結合させる言語の力に依存している(ex.「スタップ細胞は存在 します」)。eはdの理解という言語行為が前提。その他については、言うまでもない。
結局、「科学的真理」(自然科学的真理)という語りのスタイルは、
a.ある問題に関連する経験的感知をできるだけ集合しそこからの推論を立ち上げる。
b.推論が普遍的に成り立つとみなせるための条件を設定する(比較、純粋で公平な環境、必要量など)。
c.実験・観察を繰り返す。
d.形而上学的説明用語・情緒的説明用語(たとえば「超越性」「もののあはれ」)を極力排除する。
e.物質の実在をけっして疑わない。
f.特定の個物の個物としての特性は無視する。(あるリンゴの表面の傷など)
g.特定の個人と特定の個物との関係は無視する。(花瓶に生けた花への愛着など)
h.偶発性、時間性、倫理性などを排除した記号群による言語空間を作り上げる。
*動力学などで時間tや速度vなどが用いられる場合でも、その説明体系全体が時間によって変容したり飛躍したりすることは考えられていない。それはもともと時間を超越した普遍的真理を目指しているからです。
などの特徴を持っている。これは一つの「哲学」なのであり、世界に対する人間の一つ の接し方に他ならない。それは、世界を必ず「対象」としてみる。もちろん、ことを物 的な対象に限っても、「対象」としてみる以外の接し方はあるわけです。
Ⅴ.太宰治の『新郎』と『十二月八日』
一部朗読
①『新郎』(十二月八日脱稿)には、日米戦争開始の日を迎えた男の生真面目な気持ちが素直に描かれている。これはこれで当時の一般男性庶民の偽らざる気持ちの表現になっていて、身の引き締まる思いである。ところが――
(朗読)
大学生や国民学校の訓導や叔母に厳しく対応していながら、それをわざわざ「俺はこんなに真面目に殊勝になっているんだぞ」と書くところに、太宰ならではの自意識過剰ぶりとそれをまた自己相対化してみせる芸が感じられる。
また、最後の馭者との対話と、紋服を着て銀座八丁を練り歩きたいなどの願望の表現のうちに、自分の肩ひじ張った殊勝ぶりに対する自己戯画化が出ている。
『富岳百景』や『黄金風景』と同じ系列の作品である。自分の来し方のダメさ、一般人として生きることの出来ないコンプレックスがにじみ出ていて、そういう自省と羞恥の上にしか成り立たない作品であろう。
②『十二月八日』(十二月二十日ごろ脱稿)は、わずか二週間弱ほど後に、今度は奥さん(美知子)の立場に立って、厳粛な心掛けを吐露している夫の気持ちにそのまま寄り添うのではなく、普段の夫の姿をよく知っている人にしか書けないようなスタンスから、その滑稽なさまを描き出している。
(朗読)
これによって前作の自己戯画化、自己相対化の視線はさらに明瞭になる。説教師よろしく似合わぬ裃を着てはみたものの、西太平洋がどこかも知らず、原稿を届けてしまえば殊勝な心構えもすぐに崩れて、出先で酔っ払って帰ってきて放言するいつもの癖をさらけ出す。その姿態を、奥さんは見逃さない。どうせまた今夜も帰りは遅いだろうということまで見越している。
だがその見逃さない奥さんの視点を描くのは太宰自身なのである。
③この作品と前作とをセットにして読むことで、男と女とが、この日をどのように迎えたかが、よくできた夫婦漫才のように見えてくる仕掛けになっている。もちろんこの女主人公も、この特別な日をある種の感動でもって迎えていることは確かなのだが、女のまなざしは、裃を着ようと息張っている男のそれとはまったく異なり、普段とほとんど変わらない暮らしの細部を掬い取り、赤子を抱えて一日を過ごす苦労をさりげなく綴っている。
④以上で、太宰は日米戦争開始に対して本気で興奮していないことがわかる。自分が引き締まった気持ちを抱いたことにウソはないのだろうが、むしろそれを、語り手をチェンジさせることによってすぐに「語り」の素材にしてしまう醒めた目こそが、文学者としての太宰の本領なのである。優れた語り師はこのように、自分自身とその周りとに絶えず気を張り巡らせているのだ。
この「語り」の位相は、世界を大真面目に硬直した眼で眺める「男」のある種のタイプを顔色なからしめる。
太宰は、藤村のように「お面!」と大上段に構えて打ち込む作家を嫌っていた。「語り」には「やんちゃの虫」「ユーモアとパロディの精神」「自分をも突き放す目」がぜひ必要なのである。これは落語の語りに共通。
⑤さて、こうした「語り」のあり方は、いわゆる「真実」からかけ離れているだろうか。むしろ事態は逆であり、太宰のような多面相(それぞれの語り手への自在な乗り移り)の語り方こそが、人を深く納得させるのである。これも落語の語りに共通する。『女学生』『お伽草子』『皮膚と心』『葉桜と魔笛』『ろまん燈籠』『女神』『男女同権』『親友交感』など。
Ⅵ.落語の「語り」――嘘話、バカ話における真実
①太宰と同じような多面相――一人何役も。扇子と手ぬぐいだけ。
②語り継ぎということの意味――「芯」と「肉付け」と「推敲」と「アドリブ」
a.芯:誰か(アノニマス)の創作。元型(アーキタイプ)。これを崩さないこと。
b.肉付け:伝言ゲーム、噂話、言い伝え。元型との対話による変奏。
c.推敲:伝統芸なので、何回も何回も演じられているうちに無意識のうちに練られていく。淘汰の作用も働いてい る。観客の心を惹きつけようという膨大な努力の跡。
d.アドリブ:現場感覚の重要性、観客との生き生きとした交流。噺家の個性。枕の工夫。
→これらの仕掛けによって、一回聴いたら忘れないように心に沁みる。
③人物像の定型〈パターン〉の魅力:ご隠居さん、熊、八、兄貴、おかみさんと亭主、大旦那、番頭、若旦那、手代、女郎屋の女将、花魁、大家と店子、お侍、純な娘、田舎者……etc
→これらによって、だいたい世間の関係が網羅されていて、現代社会にも応用できる。 知ったかぶり、権威主義、バカ正直、見栄張り、尻に敷かれる亭主、身分違いのコミュニケーションギャップ、欲張りの自業自得、ケチ、厭な奴への復讐思わぬ幸運……etc
④ありっこない話、バカ話、誇張、偶然の連鎖なのだが、かえってそのことによって、ふだんの生活の表面には出せない人間の本音、「ホントの気持ち」が映し出される。「笑える」「ほろりとさせる」ということは、観客の人生に照らして、思い当り感があるからである。つまり落語の語りによる笑いと涙は、「真実」なのである。
⑤一般に、英雄譚ではなく、「面白い世間話」ということの意味――人間の卑小性の提示によって、自分たちが普段生きているさまを再確認させる。人間なんてちょぼちょ ぼで「棺桶に入るときにはみな同じ」という公平さを知らせて、肩の怒りをほぐす。これらの作用は、共感性をもたらす。一種の「安心立命」へと導く。宗教的効果?
(放送)
Ⅶ.「歌物語」のしくみ――『伊勢物語』
①「歴史記述」という概念が確立していなかった時代の産物。「事実」として「面白く」読んだ。→「神話」「説話」「口伝」から「地上の実証的歴史事実」を記録しようというメンタリティーへの過渡期。四鏡(平安後期~室町前期)、『吾妻鏡』など。
→しかし歴史と文学との完全な分岐ということはあり得ず、いまも私たちの表現意識においては、重なりが続いている。
②短歌と詞書の関係から発展。この場合も、話を面白くしよう(聞くに堪えるものにしよう)という動機が第一。
『古今和歌集』(905)との重なり。67(古今)/233(伊勢)=28.7%(ちなみに、業平の歌は古今集に30首取りいれられている)。成立期は古今と後撰集(950頃)との前後であろう。
③≪例≫23段「筒井筒」――古歌、古伝承を組み込む。(古今集にも似たような詞書あり)
④「語り」は歌にまつわりつき、その語りからまた歌が生まれる。そのようにして「世」(男と女の間柄)のおかしきさまが人々に語り継がれゆく。これはみやびの情趣を理解する人々の間だけに通じた「当時における歴史記述」(現実の取りまとめ方)といってもよい。だからいかに語るかが決定的。
Ⅷ.いわゆる「歴史認識」について
①「事実」があるのではなく「現象」がある。「事実」は「立ち会う人」「伝える人」「認める人」の三者によってはじめて定着する。
②歴史記述とはもともと一種の無限のパロディである。パロディ(≒本歌取り)とは、原典を茶化すのではなく、現象を語った原典を、さらに伝える様式の一つと考えるべき。無意識の誤解・曲解も山ほどある。それもまた継承の一つ。言葉は生き物。「事実」も「歴史」も編み替えられてゆく宿命のうちにある。
③「歴史」の共有は、言葉と情緒を共有できる範囲でしか可能でない。「共同研究」などの空しさ。グローバルな歴史認識(ユネスコ記憶遺産)など、理念からして間違い。
④中韓の「南京大虐殺」「従軍慰安婦」は、「立ち会う人」と「認める人」のレベルがきわめて貧弱で、「伝える人」だけがわあわあ騒いで成り立ってしまったお粗末な事態。声の大きい者が勝つ。
ニーチェ「力への意志」――真実とは強い種族に都合のよいように作られたでっち上げである。
⑤では、負けたままでよいのか。もちろんよくない。「神は必ず見ていてくださる」は負け犬の遠吠えと変わらない。歴史とは物語の集積であって、その中身がぶつかり合うときには、さまざまな「力」を用いて相手の口を封じるべきである。道徳的な非難は意味がない。
⑥「力」とは――武力、経済力、外交力。しかし何よりも大事なのは、説得力(弁論術)と構想力(事実が成立するための三者をいかに組み立てるか)。「まこと一途」はよろしくない。(参考:実証歴史学者・津田左右吉の法廷での答弁)
⑦マキャヴェッリ『君主論』18章より。
要するに、君主は前述のいろいろなよい気質を何もかもそなえてゐる必要はない。し かし、そなえているように思わせることは必要である。いや大胆にこう言っておこう。そうした立派な気質をそなえていて、常に尊重しているというのは有害であり、そなえているように思わせること、それが有益である、と。つまり、慈悲深いとか、敬虔だとか思わせることが必要である。それでいて、もしそのような態度を捨て去らなければならない時には、まったく逆の気質に転換できるような、また転換の策を心得ているような気構えが、つねにできていなくてはならない。